北条泰時(ほうじょうやすとき)〔二〕
千二百二十五年(嘉禄元年)六月に有力幕臣・大江広元が没し、七月には尼将軍・政子が世を去って幕府は続けて大要人を失った。
後ろ盾となり、泰時(やすとき)を補佐してくれた政子の死は痛手であったが、同時に政子の干渉という束縛から解放され、泰時(やすとき)は独自の方針で政治家としての力を発揮できるようになる。
泰時(やすとき)は難局にあたり、頼朝から政子にいたる専制体制に代わり、集団指導制、合議政治を打ち出す。
叔父の六波羅探題・北条時房を京都から呼び戻し、泰時(やすとき)と並ぶ執権の地位に迎える。
「両執権」と呼ばれる複数執権体制をとり、次位のものは後に「連署」と呼ばれるようになる。
泰時(やすとき)は続いて三浦義村ら有力御家人代表と、中原師員ら幕府事務官僚などからなる合計十一人の評定衆を選んで政所に出仕させる。
これに執権二人を加えた十三人の「評定会議」を新設して幕府の最高機関とし、政策や人事の決定、訴訟の採決、法令の立法などを行った。
三代将軍・源実朝暗殺後に新たな鎌倉殿として京から迎えられ、八歳となっていた三寅を元服させ、藤原頼経と名乗らせる。
実朝暗殺以降六年余、幕府は征夷大将軍不在であったが、千二百二十六年(嘉禄二年)頼経が正式に征夷大将軍となる。
泰時(やすとき)は、初代将軍・頼朝以来大倉にあった幕府の御所に代わり、鶴岡八幡宮の南、若宮大路の東側である宇都宮辻子に幕府を新造する。
頼経がここに移転し、その翌日に評定衆による最初の評議が行われ、以後はすべて賞罰は泰時(やすとき)自身で決定する旨を宣言した。
この幕府移転は規模こそ小さいもののいわば遷都であり、将軍独裁時代からの心機一転を図り、合議的な執権政治を発足させる象徴的な出来事だった。
また、鎌倉の海岸に宋船も入港した和賀江島の港を援助して完成させたのも泰時(やすとき)だった。
千二百二十七年(嘉禄三年)六月十八日、泰時(やすとき)次男・時実(ときざね)が家臣に十六歳で殺害された。
次男・時実(ときざね)殺害の三年後の千二百三十年(寛喜二年)六月十八日には長男の時氏(ときうじ)が病のため二十八歳で死去する。
その一か月後の七月、三浦泰村に嫁いだ娘が出産するも子は十日余りで亡くなり、娘自身も産後の肥立ちが悪く八月四日に二十五歳で死去するなど、泰時(やすとき)は立て続けに不幸に見舞われた。
泰時(やすとき)には、歴史的に賞賛すべき功績がある。
「御成敗式目」である。
承久の乱以降、新たに任命された地頭の行動や収入を巡って各地で盛んに紛争が起きており、また集団指導体制を行うにあたり抽象的指導理念が必要となった。
幕府評定衆は、紛争解決のためには頼朝時代の「先例」を基準としたが、先例にも限りがあり、また多くが以前とは条件が変化していた。
泰時(やすとき)は京都の法律家に依頼して律令などの貴族の法の要点を書き出してもらい、毎朝熱心に勉強した。
泰時(やすとき)は「道理(武士社会の健全な常識)」を基準とし、先例を取り入れながらより統一的な武士社会の基本となる「法典」の必要性を考えるようになり、評定衆の意見も同様であった。
泰時を中心とした評定衆たちが案を練って編集を進め、千二百三十二年(貞永元年)八月、全五十一ヶ条からなる幕府の新しい基本法典が完成した。
初めはただ「式条」や「式目」と呼ばれ、後に裁判の基準としての意味で「御成敗式目」、あるいは元号をとって「貞永式目」と呼ばれるようになる。
完成に当たって泰時は六波羅探題として京都にあった弟の重時に送った二通の手紙の中で、式目の目的について書き送っている。
「御成敗式目」は日本における最初の武家法典である。
数年前から天候不順によって国中が疲弊していたが、千二百三十一年(寛喜三年)には寛喜の飢饉が最悪の猛威となり、それへの対応に追われた。
「御成敗式目」制定の背景にはこの社会不安もある。
それ以前の律令が中国法、明治以降現代までの各種法律法令が欧米法の法学を基礎として制定された継承法である。
対し、式目はもっぱら日本社会の慣習や倫理観に則って独自に創設された法令という点で日本法制史上特殊な地位を占める。
千二百三十五年(嘉禎元年)、石清水宮と興福寺が争い、これに比叡山延暦寺も巻き込んだ大規模な寺社争いが起こると、泰時(やすとき)は強権を発して寺社勢力を押さえつけた。
興福寺、延暦寺をはじめとする僧兵の跳梁は、院政期以来朝廷が対策に苦しんだところであったが、幕府が全面に乗り出して僧兵の不当な要求には断固武力で鎮圧するという方針がとられた。
千二百四十二年(仁治三年)に四条天皇が崩御した為に、順徳天皇の皇子・忠成王が新たな天皇として擁立されようとしていた。
泰時(やすとき)は父の順徳天皇がかつて承久の乱を主導した首謀者の一人であることからこれに強く反対する。
忠成王の即位が実現するならば退位を強行させるという態度を取り、貴族達の不満と反対を押し切って後嵯峨天皇を推戴、新たな天皇として即位させた。
この強引な措置により、九条道家(くじょうみちいえ)や西園寺公経(さいおんじきんつね)ら、京都の公家衆の一部から反感を抱かれ、彼らとの関係が後々悪化した。
新天皇の外戚(叔父)である土御門定通(つちみかどさだみち)は泰時(やすとき)の妹である竹殿を妻としていた為、以後泰時(やすとき)は定通を通じて朝廷内部にも勢力を浸透させて行く事になる。
「吾妻鏡」に依れば、千二百四十一年(仁治二年)六月二十七日、泰時(やすとき)は体調を崩しており騒ぎになったが、この時は七月二十日に回復している。
「鎌倉年代記・裏書」に依ると、千二百四十二年(仁治三年)五月九日、泰時(やすとき)は出家して上聖房観阿(じょうしょうぼうかんあ)と号した。
この時、泰時(やすとき)の異母弟の朝時(ともとき)をはじめ、泰時の家来五十人ほども後を追って出家する。
出家から一ヵ月半後の六月十五日、泰時(やすとき)は六十歳で死去した。
「皇位継承問題が大きな心労になった」ともされて、公家の日記である「経光卿記抄」の六月二十日条よると、日頃の過労に加えて赤痢を併発させ高熱に苦しみ没したとされている。
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皇統と鵺の影人
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