北条泰時(ほうじょうやすとき)〔一〕
幼名は金剛と名付けられ、母は義時側室の阿波局で、御所の女房と記されるのみで出自は不明である。
泰時(やすとき)が誕生した頃、父の義時は二十一歳で、祖父の北条時政ら北条一族と共に源氏の頭領・源頼朝の挙兵に従い鎌倉入りして三年目の頃の事である。
金剛(泰時)が十歳の頃、御家人・多賀重行が金剛(泰時)と擦れ違った際、重行が下馬の礼を取らなかった事を征夷大将軍・源頼朝(鎌倉殿)に咎められた。
金剛(泰時)は征夷大将軍・源頼朝(鎌倉殿)の外戚であり、幕政中枢で高い地位・執権を持っていた北条氏は、他の御家人とは序列で雲泥の差があると頼朝は主張し、重行の行動は極めて礼を失したものであると糾弾した。
頼朝の譴責(けんせき)に対して重行は、「自分は非礼とみなされるような行動はしていない、金剛(泰時)も非礼だとは思っていない」と弁明し、金剛(泰時)に問い質すよう頼朝に促した。
そこで頼朝が金剛(泰時)に事の経緯を問うと、重行は全く非礼を働いていないし、自分も非礼だと思ってはいないと語った。
しかし頼朝は、重行は言い逃れの為に嘘をつき、金剛(泰時)は重行が罰せられないよう庇っていると判断し、重行の所領を没収し、金剛(泰時)には褒美として剣を与えたと、「吾妻鏡」に収録されている。
この逸話は、泰時(やすとき)の高邁な人柄と、頼朝の泰時(やすとき)に対する寵愛を端的に表した話と評されている。
但し肉親の情に薄い頼朝(鎌倉殿)の真意は、頼朝の泰時(やすとき)に対する寵愛よりも「御家人・多賀重行を排除する意向が先に在った」と観るべきかも知れない。
「吾妻鏡」によれば、泰時(やすとき)は千百九十四年(建久五年)二月二日に十三歳で元服、幕府にて元服の儀が執り行われ、烏帽子親となった初代将軍・源頼朝(鎌倉殿)から「頼」の一字を賜って偏諱(へんき)として頼時(よりとき/泰時)と名乗る。
頼時(よりとき)が後に泰時(やすとき)と改名した時期については不明とされている。
改名時期に関しては、千百九十九年(正治元年)、頼時(よりとき/泰時)の烏帽子親である頼朝が亡くなった直後にあたる時期が推測できる。
「吾妻鏡」を見ると千二百年(正治二年)二月に「江間大郎頼時」、千二百一年(建仁元年)九月には「江馬太郎殿泰時」と表記され、凡その改名時期が推測できる。
また、頼時(よりとき/泰時)元服の際には、頼朝の命によって元服と同時に御家人・三浦義澄の孫娘との婚約が決められていた。
泰時(やすとき)は、改名後の千二百二年(建仁二年)八月には三浦義村(義澄の子)の娘(矢部禅尼)を正室に迎える。
翌千二百三年(建仁三年)に嫡男・時氏が生まれるが、後に三浦氏の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えている。
その年の九月、泰時(やすとき)は比企能員(ひきよしかず)の変で比企討伐軍に加わっている。
千二百十一年(建暦元年)、泰時(やすとき)は令外官・修理亮(しゅりのすけ)に補任される。
翌千二百十二年(建暦二年)五月、泰時(やすとき)異母弟で正室の子であった次郎朝時(じろうともとき)が第三代将軍・源実朝の怒りを買って父・義時に義絶され、失脚している。
千二百十三年(建暦三年)の和田合戦では、泰時(やすとき)は父・義時と共に和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。
泰時(やすとき)は、千二百十八年(建保六年)に父・義時から侍所の別当に任じられ、翌、千二百十九年(承久元年)には従五位上・駿河守に叙位・任官される。
千二百二十一年(承久三年)の承久の乱では、三十九歳の泰時(やすとき)は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。
承久の乱後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方には共に大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。
泰時(やすとき)は、以降京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。
千二百二十四年(貞応三年)六月、父・義時が急死したため、鎌倉に戻ると継母の伊賀の方が実子の政村を次期執権に擁立しようとした伊賀氏の変が起こる。
伯母である尼御台・北条政子は泰時(やすとき)と時房を御所に呼んで執権と連署に任命し、伊賀の方らを謀反人として処罰した。
泰時(やすとき)は政子の後見の元、家督を相続して四十二歳で第三代執権となる。
伊賀の方は幽閉の身となったが、担ぎ上げられた異母弟の政村や事件への荷担を疑われた有力御家人の三浦義村は不問に付せられ、流罪となった伊賀光宗も間もなく許されて復帰している。
父・義時の遺領配分に際して泰時(やすとき)は弟妹に多く与え、自分はごく僅かな分しか取らなかった。
政子はこれに反対して取り分を多くし、弟たちを統制させようとしたが、泰時(やすとき)は「自分は執権の身ですから」として辞退した。
伊賀事件の寛大な措置、弟妹への融和策は当時の泰時(やすとき)の立場の弱さ、家督相続人ではなかったのに突然家督を相続したことによる自身の政治基盤の脆弱さ、北条氏の幕府における権力の不安定さの現れでもあった。
泰時(やすとき)は新たに北条氏嫡流家の家政を司る「家令」を置き、信任厚い家臣の尾藤景綱を任命し、他の一族と異なる嫡流家の立場を明らかにした。
これが後の得宗・内管領の前身となる。
【 北条泰時(ほうじょうやすとき)〔二〕】に続く。
【第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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