興福寺(こうふくじ)
六百六十九年(天智天皇八年)、藤原鎌足夫人の鏡大王(かがみのおおきみ)が夫・鎌足の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、山背国(やましろのくに)山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が興福寺(こうふくじ)の起源である。
壬申の乱(じんしんのらん)が在った六百七十二年(天武天皇元年)、山階寺(やましなでら)は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
七百十年(和銅三年)の平城遷都に際し、鎌足の子・藤原不比等は厩坂寺(うまやさかでら)を平城京左京の現在地に移転し「興福寺(こうふくじ)」と名付け実質的な興福寺の創建となった。
つまり興福寺(こうふくじ)は、藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。
中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られその後も、大王(おおきみ/天皇)や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。
不比等が没した七百二十年(養老四年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
興福寺(こうふくじ)は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かった為に手厚く保護された。
平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。
その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。
寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたが、中でも八百七十年(天禄元年)に真言宗の僧・定昭(じょうしょう)の創立した一乗院と千八十七年(寛治元年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。
鎌倉時代・室町時代の武士の時代になっても大和武士(大和四家と言う武士集団)と僧兵等を擁し強大な力を持っていた為、幕府は守護を置くことができなかった。
よって大和国は実質的に興福寺(こうふくじ)の支配下にあり続けた。
安土桃山時代に至って織田・豊臣政権に屈し、千五百九十四年(文禄四年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として二万千余石とされた。
興福寺(こうふくじ)は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。
中でも千百八十年(治承四年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平清盛の五男・平重衡(たいらのしげひら)の南都焼討による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。
この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走、朝廷や藤原氏との交渉をする。
結果、平氏流(へいしりゅう) が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺(こうふくじ)側へ返却される。
消失建物の再建には、朝廷・氏長者(藤原氏)・興福寺の三者で費用を分担して復興事業が実施される事となった。
現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。
なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失した為、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。
興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。
千七百十七年(享保二年)江戸時代の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などは再建されなかった。
千八百六十八年(慶応四年)に明治政府から出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺(こうふくじ)は大きな打撃をこうむった。
江戸時代は二万千石の朱印を与えられ保護された興福寺(こうふくじ)が、この廃仏毀釈で消滅の危機に立たされのだ。
子院はすべて廃止、寺領は千八百七十一年(明治四年)の上知令で没収され、僧は春日社の神職となった。
興福寺(こうふくじ)境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。
一乗院跡は現在の奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。
興福寺(こうふくじ)は、一時廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。
五重塔は値段には諸説あるが、二百五十円で買い手がつき、買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうとしたが、延焼を心配する近隣住民の反対で火を付けるのは取りやめになったと伝えられる。
ただし、五重塔が焼かれなかった理由はそれだけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったという。
興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗って華族に列し「奈良華族」と呼ばれた。
行き過ぎた廃仏政策が反省され出した千八百八十一年(明治十四年)、ようやく興福寺の再興が許可された。
千八百九十七年(明治三十年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。
興福寺(こうふくじ)は、南都七大寺の一つに数えられ、南円堂は西国三十三所第九番札所である。
現在は、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
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by mmcjiyodan | 2016-12-30 09:23