文武大王(もんむおおきみ/天皇)
文武(もんむ)の母は、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の皇女にして持統天皇(じとうてんのう/第四十一代女帝)の異母妹で、後に元明大王(めいげんおおきみ/第四十三代天皇)となる阿陪皇女である。
文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)の幼少期は、父・草壁が皇太子のまま亡くなり即位していない為、本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられる筈だった。
しかし祖母である持統天皇の後見もあってか、文武(もんむ)は、立太子以前から皇子の扱いを受けていた。
父・草壁が六百八十五年五月七日(持統天皇三年年四月十三日)に亡くなり、六百九十六年(持統天皇十年七月十日)には伯父にあたる高市皇子も薨じた。
ために、六百九十七年三月十三日(持統天皇十一年三月十三日)に、文武(もんむ)は立太子する。
立太子から五カ月余り、六百九十七年八月一日(文武天皇元年八月一日)、祖母・持統から譲位されて天皇の位に即き、六百九十七年九月七日(九月十七日)即位の詔(みことのり)を宣した。
文武帝は、当時十五歳という先例のない若さだった為、先帝・持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。
文武帝がこの若さで即位した理由を説明するには皇太子になった経緯がある。
現存日本最古の漢詩集「懐風藻(かいふうそう)」によれば、持統天皇が皇位継承者である日嗣(ひつぎ)を決めようとしたときに、群臣たちがそれぞれ自分の意見を言い立てたために決着がつかなかった。
その際に弘文天皇(大友皇子)の第一皇子・葛野王(かどののおう)が、「わが国では、天位は子や孫がついできた。もし、兄弟に皇位をゆずると、それが原因で乱がおこる。この点から考えると、皇位継承予定者はおのずから定まる」という主旨の発言をした。
ここで天武天皇の第九皇子・弓削皇子(ゆげのみこ)が何か発言をしようとしたが、葛野王(かどののおう)が叱り付けた為、そのまま口をつぐんでしまったとされる。
持統天皇は、この葛野王(かどののおう)の一言が国を決めたと大変喜んだとされる。
これには、持統天皇が軽皇子を皇太子にしようとしていた際に、王公諸臣の意見がまとまらなかった事があるとされる。
このような論争が起こった事には、天武・持統両天皇がもともと自分たちの後継者を草壁皇子と定め、皇太子に立てた。
その軽皇子(文武帝)の成長を待つ間は、時間を稼ぐ為に持統帝が自ら皇位についた。
ただ、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)には、草壁皇子以外にも母親の違う皇子が他に居た。
彼らは、草壁皇子の死後皇位につく事を期待したものの、持統天皇の即位によって阻まれたが、持統天皇の次の天皇位は新たなチャンスとなった。
この事から考えると、天武天皇の皇子である弓削皇子(ゆげのみこ)は、皇位継承権を主張しようとしたと考えられる。
これは、皇位継承が兄から弟へと行われるべきという考え方と、親から子・孫へと行われるべきという考え方の二通りがある為とされる。
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皇統と鵺の影人
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