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仁賢大王(にんけんおおきみ・天皇)

仁賢大王(にんけんおおきみ・第二十四代天皇)の即位には、流浪と復権と言うドラマチックな物語が伝えられている。

仁賢大王(にんけんおおきみ/天皇)は、古墳時代大王(天皇)で履中大王(りちゅうおおきみ/第十七代天皇)の孫、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子・億計王(おけのおう)である。

父の市辺押磐皇子が、雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/第二十一第天皇)に殺されると、弟の弘計王(こうけいのおう/後の顕宗大王/けんぞう・天皇)と共に逃亡して身を隠した。

まず丹波国与謝郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。

兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した。

縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇二年に、弟王・弘計が宴の席で王族の身分を明かした。

それを伝え聞いた清寧大王(せいねいおおきみ/第二十二代天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に二王を宮中に迎え入れ、四月に兄王・億計王(おけのおう)が皇太子となった。

清寧天皇五年に清寧大王(天皇)が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が執政した。

結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年元旦、弘計が顕宗大王(けんぞうおおきみ/天皇として即位する。

引き続き億計王(おけのおう)が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。

その後、即位した弟王・弘計の顕宗大王(けんぞうおおきみ)が、わずか在位三年で崩御した為、億計王が仁賢天皇元年一月に大王(おおきみ/天皇)に即位した。

仁賢大王(にんけんおおきみ)は、父を殺した雄略大王(おおきみ/天皇)の皇女・春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を皇后に迎え入れる。

理由として、仁賢大王(にんけんおおきみ)自身が傍系の出身であるため、直系の皇女を皇后に迎え入れ正当性を強めたと考えられている。


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by mmcjiyodan | 2017-05-17 16:24  

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