欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)
継体大王(けいたいおおきみ)と仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)の皇女・手白香皇女(たしらかのひめみこ)との子である。
欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)は、母に仁賢大王(にんけんおおきみ)の皇女・手白香皇女(たしらかのひめみこ)を持つ血筋として父・継体大王の皇統の歪みを解消した。
大王(天皇)が皇女を皇后とするという流れは、欽明が即位するまでに天皇に立った庶兄の安閑大王(あんかんおおきみ)、宣化大王(せんかおおきみ)でも、それぞれ手白香皇女の姉妹を皇后に迎え入れている。
さらに欽明自身も、宣化大王の皇女・石姫皇女(いしひめのひめみこ)を皇后に迎えており、何重にも皇統が維持されている。
仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)を唯一の例外とするこの流れは、聖武天皇の妃・光明皇后冊立まで続いた。
この欽明大王(きんめいおおきみ)の御世、大伴金村(おおとものかなむら)と物部尾輿(もののべのおこし)を大連(おおむらじ)とし、蘇我稲目宿禰(そがのいなめすくね)を大臣(おおおみ)とした。
大連(おおむらじ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の一つで、姓(かばね)の一つである連(むらじ)の中でも軍事を司る伴造出身の有力氏族である大伴氏(兵力)と物部氏(兵器)が大連となった。
大臣(おおおみ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の一つで、王権に従う大夫を率いて大王(天皇)の補佐として姓(かばね)の一つである臣(おみ)の有力者が就任し執政を行った。
しかし大伴金村は、大連(おおむらじ)就任直後の五百四十年(欽明天皇元年)に失脚し、物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがる。
その翌年、五百四十一年(欽明天皇二年)に、欽明大王は大連(おおむらじ)・蘇我稲目(そがのいなめ)の娘である堅塩媛(きたしひめ)や小姉君(おあねのきみ)を妃とする。
この蘇我氏の娘達が生んだ三人の弟・妹(用明・推古・崇峻)が、計四十年間も大王(天皇)位につき、蘇我氏の全盛期が築かれた。
詳しくは小論・【継体大王(けいたいおおきみ・天皇)即位のある疑い。】を参照下さい。
◆このコンテンツ(記事)を「引用」・「転載」する時は、必ず原作者名・未来狂冗談を明記した上で出典元の当方アドレスをリンクで貼って下さい。
関連記事
【大王(おおきみ)=天皇(てんのう)】に飛ぶ。
【古墳時代(こふんじだい)】に飛ぶ。
【第一巻第二話】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ】
<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)
未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2017-05-17 16:27