蘇我蝦夷(そがのえみし)
蘇我蝦夷(そがのえみし)は、飛鳥時代の有力豪族・貴族・大臣として、推古大王(すいこおおきみ/第三十三代天皇・女帝)末年から皇極大王(こうぎょくおおきみ/第三十五代女帝)の御代にかけて権勢を振るう。
侮蔑(ぶべつ)蛮族扱いだった蝦夷(えみし)を、わざわざ名に用いるのは、蝦夷の精強な印象を良いイメージとして借用した名前である。
推古大王(すいこおおきみ)の崩御後、皇位継承者の選定に当たり、推古大王(すいこおおきみ)の遺勅として田村皇子を舒明大王(じょめいおおきみ/第三十四代天皇)として即位させた。
有力な皇位継承の候補者としては、田村皇子と山背大兄王(やましろのおおえのおう)がいたが、蘇我蝦夷(そがのえみし)は山背大兄王を推薦した叔父の境部摩理勢(さかいべのまりせ)を殺害した。
舒明大王(じょめいおおきみ)の崩御後は皇極天皇を擁立したが、山背大兄王の私民を使役して自らの墓所を作らせた。
また蘇我蝦夷(そがのえみし)の子・蘇我入鹿(そがのいるか)に紫冠(冠位十二階最高位大徳の色であるが、代々大臣を務めた蘇我氏当主の冠とする説もある)を授けて大臣と為す。
子で入鹿(いるか)の弟を物部大臣(もののべおおおみ)とし、屋敷を宮上の門(みやかみのみかど)と呼ばせるなど、蘇我蝦夷(そがのえみし)自らを大王(おおきみ)に擬する行為があった。
一方で子の入鹿(いるか)は、山背大兄王を襲って上宮王家一家を自殺に追いこんだ。
六百四十三年入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇極大王(こうぎょくおおきみ)の次期大王(おおきみ/天皇)に擁立しようと望んだ。
その為には有力な皇位継承権者である山背大兄王の存在が邪魔であると考え、巨勢徳多(こせのとこた)、土師娑婆連(はじのさばのむらじ)の軍勢をさしむけ、山背大兄王の住む斑鳩宮(いかるがのみや)を攻めさせた。
山背大兄王は王子と共に自殺、上宮王家は滅亡した。
六百四十五年、「乙巳の変(いっしのへん)」で皇極大王(こうぎょくおおきみ/第三十五代女帝)の御前で入鹿(いるか)が殺害されると、蘇我蝦夷(そがのえみし)のもとに与する者が集まった。
だが翌日、蘇我蝦夷(そがのえみし)は、入鹿(いるか)の屍(むくろ)を前にして、邸宅に火をかけ、五十九歳で自害した。
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