雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/天皇)
雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)は、「宋書」、「梁書」に記される「倭の五王」中の倭王・武に比定される。
その倭王・武の上表文には「周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されている」とされている。
例えば、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘を「隻加多支鹵大王」と読め、即(すなわ)ちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力である。
「日本書紀」の暦法が「雄略紀」以降とそれ以前で異なること、「万葉集」や「日本霊異記」の冒頭に雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)が掲げられている。
その事から、まだ朝廷としての組織は未熟では在ったものの、雄略朝に於いてヤマト王権の勢力が拡大強化された事が、「歴史的に画期で在ったと古代の人々が捉えていた」とみられる。
記紀によれば、安康三年八月九日、安康大王(あんこうおおきみ/第二十代天皇)が、幼年の眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺されたとする。
安康大王(あんこうおおきみ/第二十代天皇)は大草香皇子(おおくさかのみこ)を殺害し、その妃である中蒂姫命(なかしのひめみこ/長田大郎女)を奪って自分の皇后とした。
中蒂姫(なかしのひめみこ)は大草香皇子(おおくさかのみこ)との子である眉輪王(まよわのおおきみ)を連れており、これが眉輪王に安康大王(あんこうおおきみ)が殺害される直接の原因となった。
記紀によれば、この眉輪王(まよわのおおきみ)、父の大草香皇子(おおくさかのみこ)が罪無くして安康大王(あんこうおおきみ)に誅殺された。
その後、母の中蒂姫命(なかしひめのみこと)は安康大王(あんこうおおきみ)の皇后に立てられ、眉輪王(まよわのおおきみ)は連れ子として育てられた。
安康三年(四百五十六年)八月、年幼くして楼(たかどの)の下で遊んでいた眉輪王(まよわのおおきみ)は、安康大王(あんこうおおきみ)と母・中蒂姫命(なかしひめのみこと)の会話を残らず盗み聞いて、亡父が安康大王によって殺された事を悟り、熟睡中の安康大王を刺殺する。
この「眉輪王の変」当時、眉輪王(まよわのおおきみ)の年齢を「古事記」では七歳とあるが誤記と推定されている。
安康大王(あんこうおおきみ/第二十代天皇)が、仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)の子である大草香皇子(おおくさかのみこ)に、妹の草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)を同母弟である即位前の雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/第二十一代天皇)の妃に差し出すよう命令する。
大草香皇子(おおくさかのみこ)と草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)は、父系の叔父と叔母にあたる。
命令した際に、仲介役の坂本臣等の祖である根臣(ねおみ)が、大草香皇子(おおくさかのみこ)の「お受けする」との返答に付けた押木玉鬘(おしきのたまかつら:金銅冠とも)を横取りする為に、安康大王(あんこうおおきみ)に「大草香皇子は拒否した」と偽りの讒言(ざんげん)をしている。
安康大王暗殺の事実を知った大泊瀬皇子(おおはつせのみこ/後の雄略大王・ゆうりゃくおおきみ)は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)を斬り殺(生き埋め説あり)する。
次いで坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)と眉輪王(まよわのおおきみ)をも殺そうとした。
この二人は、豪族・葛城氏の葛城円宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子(おおはつせのみこ/雄略大王)は三人共に焼き殺してしまう。
さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(仁賢大王 ・顕宗大王の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃して、十一月月にヤマト王権の大王の座に就いた。
雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)は即位後、草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)に求婚する道の途中で、志貴県主(しきあがたぬし/参考:志貴県主神社)の館が「鰹木を上げて皇居に似ている」と何癖をつけ、布を掛けた白犬を手に入れる。
その白犬を婚礼のみやげ物にして、雄略大王は草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)を皇后とする。
雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)は平群真鳥(へぐりのまとり)を大臣(おおおみ)に、大伴室屋(おおとものむろや)と物部目(もののべのめ)を大連(おおむらじ)に任じて、軍事力で専制王権を確立した。
雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)の次の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家群をヤマト王権に臣従させる事であった。
特に最大の地域政権・吉備氏に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫った(吉備氏の乱)。
具体的には、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進める。
さらに雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)の死後には星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋(おおとものむろや)らが鎮圧して、ヤマト王権の優位を決定的にした。
「日本書紀」には他に、播磨の文石小麻呂(あやしのおまろ)や伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)の豪族を討伐した記事がある。
雄略二十二年一月一日、白髪皇子(しらかのみこ/後の第二十二代天皇・清寧大王/せいねいおおきみ)を皇太子とし、翌二十三年八月、雄略大王は病気の為に崩御した。
雄略二十三年を機械的に西暦に換算すると四百七十九年となる。
しかし梁書によると、梁の武帝は五百二年、雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)に比定される倭王・武を征東将軍に進号している。
この解釈としては、実際の雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)の没年は記紀による年代よりも後であったとする見解と、「雄略帝=倭王武の比定」が誤っているとする見解がある。
雄略帝は、即位後も人を処刑する事が多かった為、後に大悪天皇と誹謗される原因となっている。
だが、大悪天皇の記述は武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)にも見られる事から、両者は同一人物ではないかとの別説もある。
記紀に於いては、雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)の血筋は男系では途切れたものの、皇女の春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)が仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)の皇后となる。
その娘の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の皇后となり欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)を産んでいる事から、雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)の血筋は女系を通じて現在の皇室まで続いている。
ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。
注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。
参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。
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