履中大王(りちゅうおおきみ/天皇)
履中大王(りちゅうおおきみ/第十七代天皇)は、反正大王(はんぜいおおきみ/第十八代天皇、允恭大王(いんぎょうおおきみ/第十九代天皇)の同母弟である。
つまり第十七代・履中(りちゅう)、第十八代・反正(はんぜい)、そして第十九代・允恭(いんぎょう)は、全て仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)の皇子である。
そして、この三代の大王(おおきみ)は、葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の女子・磐之媛命(いわのひめのみこと)が同じ母である。
仁徳八十七年一月、父である仁徳大王(にんとくおおきみ/第十七代天皇)崩御する。
仁徳大王第二皇子・住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)が皇位を奪おうとして叛乱を起こす。
「古事記」では、即位前に婚約者の羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)の娘、葦田宿禰(あしだのすくね)の娘の二説がある黒媛(くろひめ)と、大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと)本人だと偽って通じた住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)の反乱を受け、兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)は難波宮から石上神宮へ逃げている。
この時反乱に加担した黒媛(くろひめ)は、履中五年に成って神の祟りで急死と伝えられるている。
それにしても、同父母の第二皇子・住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)が、兄皇子を武力で倒そうとするのは権力欲なのか、それとも身分を偽って関係を持った黒媛(くろひめ)への、辻褄合わせの結果なのか、解釈が難しい。
難波宮から石上神宮へ逃げる途中、大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと/履中大王)は穴虫峠で少女に会って、伏兵が居るので、遠回りしろと教えられる。
住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)の反乱に、仁徳大王第一皇子・大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと/履中大王)は、弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じてこれを誅殺させ、履中元年二月に即位する。
履中二年、履中大王(りちゅうおおきみ/天皇)は蘇我満智(まち)・物部伊莒弗(いこふつ)・平群木菟(つく)・円大使主(つぶらのおおおみ)らを国政に参画させた。
履中四年八月、諸国に国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を設置し、国内の情勢を報告させた。
履中六年正月に蔵職(くらのつかさ)と蔵部を興し(「古語拾遺」には内蔵を興すとある)、三月に病気のため稚桜宮で崩御した。
「日本書紀」に於いては七十歳、「古事記」に六十四歳、「神皇正統記」に六十七歳崩御とあるが、在位について、実態は明らかでない。
ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。
注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。
参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。
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