熊襲(くまそ)=隼人(はやと)
日本史学者・津田左右吉らの説に、熊襲(くまそ)は五世紀ごろまでに大和朝廷へ臣従し、「隼人(はやと)」として仕えたという説がある。
熊襲(くまそ)は、部族が居住した地域名を意味するとされる語で、肥後国球磨郡(くまぐん・現人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国(おおすみのくに)曽於郡(そおぐん。現霧島市周辺及び現曽於市)に居住した部族とされる。
「古事記」には熊曾と表記され、「日本書紀」には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。
「古事記」には、景行大王(けいこうおうきみ/天皇)の皇子である日本武尊(やまとたけるのみこと)による熊襲建(クマソタケル/川上梟帥)の征伐譚が記されいる。
「日本書紀」に於いては、日本武尊(やまとたけるのみこと)に先立つ景行大王(けいこうおうきみ天皇)自身の征討伝説が記されている。
特に「古事記」では、当時はまだ小碓命( おうすのみこと)と名乗った日本武尊(ヤマトタケル)が、女装し熊襲建(クマソタケル兄弟)の寝所に忍び込み、これらを討ちとる。
その征伐譚際に、小碓命( おうすのみこと)が「タケル」の名を弟タケルより献上されたという神話で有名である。
なお、隼人(はやと)研究家の日本史学者・中村明蔵は、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、熊襲(くまそ)の本拠は、都城地方や贈於(そお)地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する美称であるとの説を唱えている。
魏志倭人伝中の狗奴国(くなくに)をクマソの国であるとする説が、東洋学者・内藤湖南、津田左右吉、古代史(上代日本史)・井上光貞らにより唱えられている。
ただし、この説と邪馬台国九州説とは一致するものではない。
文献資料ではなく、土器の分布の面からは、免田式土器(弥生期から古墳初期にかけて)が熊襲(くまそ)の文化圏によって生み出されたものではないかと考古学・森浩一は考察している。
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