垂仁大王(すいにんおおきみ/天皇)
もし、垂仁大王(すいにんおおきみ)が実存するのであれば、当時の呼称は大王(おおきみ)であり、天皇(てんのう)と呼称している文献は、いずれも以後期作成文献の追記である。
「日本書紀」、「古事記」に見える事績は総じて起源譚の性格が強いとして、その史実性を疑問視する説もあったが、近年に於いてはその実在を認めることが多い。
「日本書紀」の編年に拠ると、垂仁大王(すいにんおおきみ/第十一代天皇)は、崇神二十九年一月一日に誕生し、崇神四十八年に崇神大王(すじんおおきみ/第十代天皇)の夢の前兆により皇太子に立てられる。
垂仁元年一月、垂仁大王(すいにんおおきみ)は即位する。
翌、垂仁二年二月に彦坐王(ひこいますのみこ)の娘・狭穂姫(さほひめ)を立后、十月に纒向(まきむく)に遷都した。
垂仁三年三月、新羅王子の天日槍(アメノヒボコ)が神宝を奉じて来朝する。
垂仁五年十月、皇后の兄・狭穂彦(さほひこのみこ)が叛乱を起こし、皇后・狭穂姫命(さほひめのみこと)は兄に従って暗殺計画に失敗し焼死する。
垂仁七年七月、野見宿禰(のみのすくね)が当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとり蹴殺す事件を起こすが、これが「相撲節会の起源説話」として伝わる。
垂仁十五年二月、垂仁大王(すいにんおおきみ)は、丹波道主王(たんばのみちぬしのみこと)の女たちを後宮に入れ、八月にその中から日葉酢媛(ひばすひめ)を皇后とした。
「元伊勢伝承」に拠れば、垂仁二十五年三月、垂仁大王(すいにんおおきみ)は天照大神(あまてらすおおみかみ)の祭祀を第四皇女の倭姫命(やまとひめ)に託す。
垂仁二十七年八月、垂仁大王(すいにんおおきみ)は諸神社に武器を献納し、神地・神戸を定める。
この年、来目(奈良県橿原市久米町)に初めて屯倉を興す。
垂仁二十八年、垂仁大王(すいにんおおきみ)は殉死の禁令を発布する。
垂仁三十二年年七月、皇后・日葉酢媛(ひばすひめ)が薨去する。
野見宿禰(のみのすくね)の進言に従い、殉死の風に替えて埴輪を埋納し、ここに「埴輪の起源説話」が誕生する。
「古事記」に「石祝(棺とみられる)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。
石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民(べみん)を定めたというのである。
垂仁三十五年、垂仁大王(すいにんおおきみ)は河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め、諸国に多くの池溝を開いて、農業を盛んにしたと伝える。
垂仁三十九年十月、第 一皇子・五十瓊敷命(いにしきいりひこのみこと)が剣千振を作り、石上神宮に納める。
この後、五十瓊敷命(いにしきいりひこのみこと)に命じて、同神宮の神宝を掌らせる。
垂仁九十年二月、田道間守(たじまもり)に命じて、常世国(とこよのくに)の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。
垂仁九十九年七月、「日本書紀」に拠ると百四十歳、「古事記」に拠ると百五十二歳、「大日本史」では百三十九歳にて崩御とある。
この人間としては異常に永い年齢表記が、「古事記」・「日本書紀」が天皇神格化目的の意図を持っ歴史書と疑いを持たれる根拠にされている。
「日本書紀」の垂仁九十九年計算すると庚午(こうご)年になるのだが、「住吉大社神代記」には、在位五十三年で「辛未(かのとひつじ)年に崩御した」とあり、これは「日本書紀」の編年と相違する点で注目される。
そしてこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。
注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。
参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。
◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。
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皇統と鵺の影人
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