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景行大王(けいこうおおきみ/天皇)と日本武尊(やまとたけるのみこと)

垂仁十七年 、景行大王(けいこうおおきみ/第十二代天皇)は、垂仁大王(すいにんおおきみ/第十一代天皇)の第三皇子と日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の間に生を受けた。

垂仁三十七年一月一日に二十歳で立太子する。

景行元年七月に即位、翌、景行二年三月三日に播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を皇后に立てる。


日本書紀(にほんしょき)」に拠ると、景行四年、景行大王(けいこうおおきみ)は美濃国に行幸し、泳宮(くくりのみや、岐阜県可児市)に滞在し、八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)を妃とする。

景行十二年、熊襲(くまそ)が背(そむ)いたので、これを征伐すべく、八月に景行大王(けいこうおおきみ)自ら西下し、周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺した。

同、景行十二年、景行大王(けいこうおおきみ)は筑紫(九州)に入り、豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)を設ける。


豊後国の碩田(おおきた、大分県大分市)で土蜘蛛(つちぐも)を誅して、景行十二年十一月にようやく日向国に入る。

熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌景行十三年夏に熊襲平定を遂げた。


景行大王(けいこうおおきみ)は、日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まる事六年に及び、景行十八年三月に都へ向け出立する。

熊県(熊本県球磨郡)や葦北(同葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、景行十九年九月に還御した。

なお、この景行大王(けいこうおおきみ)親征について、「古事記(こじき) 」には一切記されていない。


景行二十五年七月、武内宿禰(たけしうちのすくね)を遣わして、北陸・東方諸国を視察させる。


景行二十七年八月、熊襲(くまそ)が再度謀反を起こした為、十月に第二皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと/倭建命)を遣わして、熊襲を征討させる。

日本武尊(やまとたけるのみこと)は熊襲首長の川上梟帥(かわかみのたける)を謀殺し、翌年に復命する。


景行四十年十月、景行大王(けいこうおおきみ)は日本武尊(やまとたけるのみこと)に蝦夷(エミシ)征討を命じる。

日本武尊(やまとたけるのみこと)は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より三種の神器(みくさのかむだから)の一つ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授かった。

日本武尊(やまとたけるのみこと)は陸奥国に入り、戦わずして蝦夷(エミシ)を平定する。


日本武尊(やまとたけるのみこと)は日高見国(北上国)から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚する。

その後近江国に出向くが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調になる。

景行四十三年年、日本武尊(やまとたけるのみこと)は身体不調のまま伊勢国に入るが、能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御し白鳥陵に葬られた。


景行五十一年八月四日、景行大王(けいこうおおきみ)は八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)との間の皇子・稚足彦尊(わかたらしひこのみこと/後の成務大王(せいむおおきみ/天皇))を皇太子に立てる。

景行五十二年五月四日に、皇后・播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)が崩御したので、同、垂仁五十二年七月七日に八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)を新たな皇后とする。


景行五十三年、景行大王(けいこうおおきみ)は息子の日本武尊(やまとたける)を追慕し、東国巡幸に出る。

景行大王(けいこうおおきみ)は東国から戻って伊勢に滞在し、翌、景行五十四年九月に纒向宮に帰る。


景行五十八年、景行大王(けいこうおおきみ)は近江国に行幸、高穴穂宮に滞在すること三年、景行六十年十一月に崩御、「日本書記」では百四十三歳、「古事記」では百三十七歳とされている。


この百四十三歳、百三十七歳とされる人間としては異常に永い年齢表記が、垂仁大王(すいにんおおきみ)と同様に「古事記」・「日本書紀」が天皇神格化目的の意図を持っ歴史書と疑いを持たれる根拠にされている。


景行大王(けいこうおおきみ)の和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)で、「タラシヒコ」という称号は十二代景行・十三代代成務十四代代仲哀の三大王(三おおきみ/天皇)が持っていた。

更に時代が下って七世紀前半に在位した事が確実な三十四代舒明三十五代皇極(三十七代斉明)の両天皇も同じ称号を持つ。

この事から、タラシヒコの称号は七世紀前半のものであるとして、十二,十三,十四代の称号は後世の造作と考える説があり、景行大王(けいこうおおきみ)の実在性そのものに疑問が出されている。


景行大王(けいこうおおきみ)の御世の、記紀(古事記・日本書紀)の記事の多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められている。

残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在を仮定すれば、その年代は四世紀前半かと考えられている。

そしてこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

日本武尊(やまとたけるのみこと/倭建命)】に続く。
景行大王(けいこうおおきみ)と三峯神社(みつみねじんじゃ)】に続く。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-09-01 00:22  

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