成務大王(せいむおおきみ/天皇)
「古事記」では、若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみこと)と表記されている。
景行五十一年八月四日に稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)は立太子、成務元年正月に即位し、成務大王(せいむおおきみ)となる。
成務大王(せいむおおきみ)は成務三年に武内宿禰(たけのうちのすくね)を大臣とした。
成務三十五年九月、成務大王(せいむおおきみ)は、諸国に令して行政区画として国 郡(くにこおり)・県邑(あがた むら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命する。
山河を隔にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、地方行政機構の整備を図った。
ここに於いて、「人民は安住し、天下太平であった」と言う。
これらの記事は「古事記」にも大同小異で、「建内宿禰(たけのうちのすくね)を大臣として、大国・小国の国造を定めたまひ、また国々の堺、また大県小県の県主を定めたまひき」とある。
「先代旧事本紀」の「国造本紀」に載せる国造の半数がその設置時期を成務朝と伝えていることも注目される。
成務大王(せいむおおきみ)は、成務四十八年三月一日に、甥の足仲彦尊(後の仲哀大王/天皇)を皇太子に立て、成務六十年六月に百七歳で崩御する。
「古事記」には、九十五歳となっている。
成務大王(せいむおおきみ)の在位についても、実在性には疑いが持たれている。
「記・紀」に載せる成務大王(せいむおおきみ)の旧辞部分の記事は、他の大王(おおきみ)のそれに比して極端に文量が少なく、史実性には疑いが持たれているものの、実在を仮定すればその年代は四世紀半ばに当たると考えられている。
「日本書紀」に、成務大王(せいむおおきみ)の在位は六十年と伝わる。
しかし、これだと「日本書紀」の記述のみでも日本武尊(やまとたけるのみこと/倭建命)の子である次代・仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)が日本武尊(やまとたける)の死後三十六年後に産まれた事になってしまう矛盾がそんざいする。
更に成務大王(せいむおおきみ)の事績は、即位六年から先は四十八年に三十一歳の仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)を皇太子に任命した記事しか無い。
これは日本武尊(やまとたける)の死が、成務大王(せいむおおきみ/天皇)の即位より二十年前にあたるため、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)の年齢が一致しなくなり、明らかに矛盾している。
こうした矛盾から、成務大王(せいむおおきみ)の捏造説が浮上している。
更に、景行大王(けいこうおおきみ)の記事と重複するが、「タラシヒコ」という称号は十二代景行・十三代代成務・十四代代仲哀の三大王(三おおきみ/天皇)が持っていた。
更に時代が下って七世紀前半に在位した事が確実な三十四代舒明・三十五代皇極(三十七代斉明)の両天皇も同じ称号を持つ。
この事から、タラシヒコの称号は七世紀前半のものであるとして、十二,十三,十四代の称号は後世の造作と考える説があり、景行大王(けいこうおおきみ)の実在性そのものに疑問が出されている。
そしてこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。
注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。
参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。
◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。
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皇統と鵺の影人
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