三韓征伐(さんかんせいばつ)
馬韓・弁韓・辰韓の三國説では、馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那加羅)辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。
日本書記の記載に於いて、仲哀八年、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/天皇)は、后妃・神功皇后(じんぐうこうごう)と熊襲(くまそ)討伐(くまそとうばつ)のため、奴国(なこく)の儺県(ながあがた)と呼ぶ地を訪れ香椎宮(かしいぐう)仮御所とする。
この儺県(ながあがた)で、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/天皇)は神懸りした神功皇后(じんぐうこうごう)に神のお告げを受けた。
託宣では熊襲(くまそ)よりも宝のある朝鮮半島の新羅(しらぎ・シルラ)を攻めよとされたが、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/天皇)はこれを信じず熊襲征伐を行い、敗北し儺県(ながあがた)に撤退する。
儺県(ながあがた)に撤退した仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/天皇)は、翌仲哀九年に香椎宮(かしいぐう)にて崩御する。
神功皇后(じんぐうこうごう)は、夫・仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/天皇)の崩御後の六十八年間政事を執り行なった。
皇后政事の始めの仕事は、齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐する事だった。
熊襲討伐(くまそとうばつ)に成功した神功皇后(じんぐうこうごう)は、住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、お腹に子供(のちの応神大王)を妊娠したまま渡海し、半島の国・新羅(シルラ)を攻める。
新羅(シルラ)は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗(コグリョ)・百済(ペクチェ)も朝貢を約したと伝えられているが、あくまでも遥か後に編纂された「日本書記」に載せられた記事である。
この頃の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。
注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。
参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。
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皇統と鵺の影人
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