顕宗大王(けんぞうおおきみ/天皇)
顕宗大王(けんぞうおおきみ)は、「記・紀」及び「播磨国風土記」に弘計天皇(をけのすめらみこと)・来目稚子(くめのわくご)と伝えられる第二十三代大王(おおきみ)である。
「古事記」に於いては、袁祁王(をけのおおきみ)・袁祁之石巣別命(をけのいわすわけのみこと)、「播磨国風土記」には袁奚王(おけのみこ)とも伝えられる。
顕宗大王(けんぞうおおきみ)は、数奇な運命を辿って大王(おおきみ/天皇)に即位した。
安康三年十月一日父・市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)が雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/天皇)に殺されると、兄の億計王(おけのみこ、後の仁賢大王)と共に逃亡して身を隠した。
兄弟は丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。
兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。
清寧二年十一月、弟・弘計王(をけのおおきみ)自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。
子がなかった清寧大王(せいねいおおきみ/天皇)はこれを喜んで迎えを遣わし、翌・清寧三年に二王を宮中に迎え入れて、兄王・億計(おけ)を皇太子に、弟・弘計(をけ)を皇子とした。
清寧五年一月十六日に清寧が崩御した後、皇太子の億計(おけ)は身分を明かした大功を理由として弟の弘計(をけ)に皇位(王位)を譲ろうとするも、弘計(をけ)はこれを拒否する。
兄弟互いが譲り在った為に皇位の相譲が続き、その間は履中大王(りちゅうおおきみ/天皇)の皇女・飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が執政した。
結果的に兄の説得に折れる形で顕宗元年元旦、弘計(をけ)が顕宗大王(けんぞうおおきみ)として即位する。
引き続き兄・億計(おけ)が皇太子を務めたが、大王(天皇)の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。
顕宗大王(けんぞうおおきみ)は、罪無くして死んだ父を弔い、また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走り意祁命にその陵の破壊を命じることもあった。
しかし、長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。
顕宗三年四月二十五日、顕宗大王(けんぞうおおきみ)は崩御する。
「古事記」に三十八歳(但し治世八年と計算が合わない)、「一代要記」では四十八歳とある。
「日本書紀」に皇子女の記載なし、「古事記」にも「子無かりき」とある。
なお「古事記」には、顕宗大王(けんぞうおおきみ)が即位前に志毘臣(しびのおみ、平群氏)との恋争いのもつれから、これを夜襲して誅殺したという話もある。
ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。
注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。
参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。
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