大宝律令(たいほうりつりょう)
しかし当初は唐の律令をそのまま受け入れて制定したので日本の国情に則さないものが多く、徐々に修正を加えて日本の国情に合う様な律令を完成させるまでには、かなりな歳月を費やしている。
七世紀後半、当時のヤマト王権は、唐の統治制度を参照しながら、王土王民思想に基づく国家づくりを進めていった。
その集大成が、第四十代・天武天皇の御世である六百八十一年から二十年を費やした大宝律令の完成であった。
七百年(文武四年)に令(れい)がほぼ完成し、残った律(りつ)の条文作成が行われ、七百一年(大宝元年八月三日)、第四十四代女帝・元正天皇の御世である大宝年間に大宝律令として完成した。
これにより、日本の律令制が成立したとされている。
大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。
刑法にあたる六巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる十一巻の「令(りょう)」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。
この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。
役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。
また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。
◆このコンテンツ(記事)を「引用」・「転載」する時は、必ず原作者名・未来狂冗談を明記した上で出典元の当方アドレスをリンクで貼って下さい。
【第一巻第二話】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ】
<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)
未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2018-01-27 21:24