仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう/追認天皇)
仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は順徳天皇(じゅんとくてんのう/第八十四代天皇)の第四皇子で、嫡出の皇子として誕生して生後一か月の十一月二十六日に立太子する。
父の順徳天皇(じゅんとくてんのう)が祖父の後鳥羽上皇(ごとばてんのう/第八十二代天皇)と共に鎌倉幕府執権・北条氏追討の挙兵(いわゆる承久の乱)に参加するため、千二百二十一年(承久三年)四月二十日日に譲位され四歳で践祚(せんそ/即位宣言)される。
仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は、即位後わずか七十八日で廃され、即位式も大嘗祭も行われなかったため諡号・追号がされずしまいだった。
為に仲恭天皇は、九条廃帝(くじょうはいてい)、承久の廃帝(じょうきゅうのはいてい)、半帝、後廃帝と呼ばれていた。
同千二百二十一年、祖父の後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたが、北条泰時率いる幕府軍に敗北する。
後鳥羽上皇・順徳上皇はそれぞれ隠岐・佐渡に、土御門上皇も自ら望んで土佐に配流された。
同千二百二十一年七月九日に鎌倉幕府の手によって仲恭天皇は皇位を廃され、高倉天皇の第二皇子である守貞親王(後高倉院)の皇子・茂仁王(後堀河天皇)が即位した。
仲恭天皇は幼児で、将軍・九條頼経の従兄弟である事からその廃位は予想外であったらしく、後鳥羽上皇の挙兵を非難していた慈円でさえ、幕府に仲恭の復位を願う願文を納めている。
仲恭天皇は、まもなく母親の実家である摂政・九條道家(天皇の叔父、頼経の父)の邸宅に引き渡され、千二百三十四年(天福二年)十七歳にて崩御する。
仲恭天皇は、千八百七十年八月二十日(明治三年七月二十四日)に弘文天皇(こうぶんてんのう/第三十九代天皇=大友皇子)・淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代天皇)と共に明治天皇(めいじてんのう/第百二十二代天皇)から「仲恭天皇」と諡号(しごう)を賜られて天皇と認められる。
【鎌倉幕府の成立大略 】
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