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鎌倉幕府十三人の合議制


1199年(建久十年)一月十三日、将軍・源頼朝が死去すると、頼朝・嫡男頼家が源家の家督を相続し第二代鎌倉将軍を就任する。

北条政子(ほうじょうまさこ)北条時政(ほうじょうときまさ)北条義時(ほうじょうよしとき)など北条家の一族は、二代将軍・源頼家の権力を北条家が剥奪する体制鎌倉幕府十三人の合議制・・・を画策、成立に成功する。



同年4月12日、北条時政北条政子は頼家の訴訟親裁権を停止し、宿老十三人による合議制によることを決定した。

理由は頼朝・嫡男頼家が若年であるとのから執られた非常時措置のようでもあるが、頼家の乳母夫比企氏と北条氏の対立など、幕府の実権争いが根底にあったものと考えられる。

これは幼少の二代将軍・頼家の源氏政権・に対する北条一族に依る一種のクーデターである。

この決定に反発した頼家は、対抗手段として小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成らの近習衆五人を指名して、この五人に手向かってはならず、この五人でなければ目通りを許さないという決定を下している。

この為。頼家の母・北条政子と政子の父親・頼家の外祖父・宿老・北条時政がはからい初代鎌倉将軍の源頼朝の有力武将鎌倉御家人(かまくらごけにん)十三人よる宿老合議制を初代執権・北条時政を中心に発足させる。


以下合議制のメンバー「宿老達」についてご紹介する。

宿老・北条義時、1205年(元久二年)の畠山重忠の乱・牧の方の陰謀を機に北条時政の嫡男・北条義時が二代執権となる。

宿老・政所別当・大江広元は鎌倉幕府の基礎を築き上げた公家で、将軍・源頼朝の死後も幕府の中で中心的な役割を担う。

宿老・問注所執事・三善康信は宿敵・平家により伊豆の蛭ヶ小島に流されていた将軍・源頼朝に、定期的に京都の情報を伝えていた公家で母が頼朝の乳母の妹だった。

宿老・政所公事奉行・ 中原親能 (なかはら の ちかよし)は宿老・大江広元の兄で公家出身の御家人で将軍・源頼朝の次女三幡の乳母夫。

宿老・中原親能は三浦大介義明の嫡男で源氏再興の挙兵後、石橋山の戦いに敗れ、安房国に渡った将軍・源頼朝を助けた武将で頼朝の征夷大将軍の辞令を朝廷から受け取った。

宿老・三浦義澄は源義朝の落胤ともいわれ、将軍・源頼朝の挙兵に参陣重陽され後に頼朝の異母弟宿老・阿野全成を討った(阿野全成の誅殺)

宿老・和田義盛・侍所別当で三浦大介義明の孫。和田合戦で滅亡。宿老・比企能員(ひきよしかず)は源頼朝の乳母比企尼の養子、源頼家の乳母夫。比企の乱で滅亡。

宿老・安達盛長は源頼朝の乳母・比企尼の娘婿で伊豆の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝を援助した武将。

宿老・足立遠元は宿老・安達盛長の甥にあたるも足立氏の祖。

宿老・梶原景時は石橋山の戦いで平家方にありながら源頼朝を助けた。源頼家の乳母夫で失脚後に梶原景時の変を起こし討死する。

宿老・政所執事・二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)は宿老・大江広元、宿老・三善康信と並んで源頼朝を支えた実務官僚で政所執事を務めた公家。

以上十三人の合議制は、1199年(建久10年)の年末には宿老・梶原景時が失脚、翌年には宿老・三浦義澄と宿老・安達盛長が死去したことで解体され、いよいよ北条執権家が得宗家として実権を握った。

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皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2020-11-14 13:15  

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