中原親能 (なかはら の ちかよし)
宿老・政所公事奉行・中原親能 (なかはら の ちかよし)は、鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。
中原親能 (なかはら の ちかよし)は、鎌倉幕府の草創期に源頼朝に招かれて下向した公家出身の御家人。
宿老・政所別当を務めた大江広元の兄に当たる。
中原親能(なかはらのちかよし)は挙兵以前の源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っている。
一説には、頼朝が伊豆国の流人の身の頃から親交があって、源頼朝が挙兵すると関東に走り頼朝の側近となったともいわれるが定かではない。
宿老・中原親能(なかはらのちかよし)は三浦大介義明の嫡男で頼朝の源氏再興の挙兵後、石橋山の戦いに敗れ、安房国に渡った将軍・源頼朝を助けた武将で頼朝の征夷大将軍の辞令を朝廷から受け取った。
中原親能(なかはらのちかよし)は、千百八十三年(寿永二年)に頼朝弟・源義経の軍勢と共に上洛し、翌年の正月にも再度入京して頼朝代官として万事を取り仕切り、貴族との交渉で活躍していた。中原親能(なかはらのちかよし)は、鎌倉幕府では軍事・行政を補佐し、京都守護・政所公事奉行など重職を歴任する。
1185年(元暦2年)の平家追討では、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景・仁田忠常・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状を受けている。
1186年(文治二年)、頼朝に次女の三幡(さんまん)が誕生すると、親能の妻が乳母に就任する。
1199(建久十年)1月13日に主君・源頼朝が落馬事故で死去し、同年六月三十日、頼朝に次女・三幡(さんまん)が死去したことに伴い親能は出家する。
1189年(文治五年)の奥州征討にも中原親能(なかはらのちかよし)は従軍している。
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皇統と鵺の影人
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