吉田松陰(よしだしょういん)
天皇の意向に反する幕府の開国方針に憤(いきどお)った勤皇の志士の中心となったのが、長州・毛利藩(萩藩)と薩摩・島津藩だった。
勿論両藩には、永年の外様の悲哀を感じていた大藩故の条件環境の整いが、藩論を倒幕に到らしめる要素ではあった。
中でも特筆すべきは、長州藩には吉田松陰(よしだしょういん)が見出して育んでいた陰謀とも言うべき恐るべき隠し玉が存在していた。
幕末(江戸時代末期)には、長州藩はその隠し玉故に「公武合体論や尊皇攘夷」を主張して京都の政局へ積極的に関わり、詰まる所は倒幕に持ち込んだ。
明治維新史に燦然と輝く吉田松陰/吉田矩方(よしだしょういん/よしだのりかた)の幼名は、杉虎之助または杉大次郎と言い、杉家は「大内家の傍流」と言われて居る。
つまり事の真贋はともかく、言い伝えに拠れば杉家は百済国・聖明(さいめい)王の第三王子・琳聖太子(りんしょうたいし)の末裔と言う事に成る。
吉田松陰(よしだしょういん)の実家は「杉(すぎ)」と言う一文字名字の家禄二十六石の萩藩士の家で、松陰(ょういん)は、その杉家の次男として生まれた。
父は杉百合之助・常道(すぎゆりのすけ・つねみち)で長州藩士ではあるが家格は無給通組(下級武士上等)、石高二十六石の貧乏武士で農業で家計を補(おぎな)っていた。
母は村田瀧と言ったが、杉家に嫁入りするに当たって行儀見習い先の萩(長州)藩家老・児玉家の児玉太兵衛・養女として家格を合わせたので、児玉瀧とも称する。
次男だったので生まれて四年後、杉寅之助四歳の時に父・百合之助の弟である家禄五十七石余、毛利氏に山鹿流兵学師範として仕える吉田家の養子となり、吉田姓を名乗る。
吉田寅之助(松陰)九歳の時、後に友人・小田村伊之助の妻になる妹・杉寿(すぎひさ)が生まれる。
そのその三年後の吉田寅之助(松陰)十二歳の時には、後に松陰門下となる久坂玄瑞(くさかげんずい)の妻となる末の妹・杉文(すぎあや・すぎふみ)が生まれている。
倒幕のリーダー的役わりを担ったのが、長州藩士、藤原氏の末裔を称する吉田松陰の私塾・松下村塾(しょうかそんじゅく)である。
元々松下村塾(しょうかそんじゅく)は松陰の叔父である玉木文之進が長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に設立したもので、若き吉田虎之助(松陰)もそこで学んだ。
頭脳明せきだった吉田虎之助(松陰)は直ぐに頭角を現し、十歳の時には既に藩主・毛利敬親の御前で「武教全書/戦法篇」を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。
そんな吉田虎之助(松陰)に転機が訪れる。
折から西欧植民地主義が直ぐ近くまでヒタヒタと迫っていて、松陰は隣国の大国・清がアヘン戦争で大敗した事を伝え知って、己が学んだ山鹿流兵学が世界列強相手に通用しない事を知った。
松陰は西洋兵学を学ぶ志を立て、千八百五十年(嘉永三年)に当時唯一窓口(長崎出島)の在る九州に遊学、その後江戸に出て佐久間象山に師事をして蘭学を学んだ。
この吉田虎之助(松陰)、頭は良かったが「こうする」と決めたら後先を考えないで突き進む頑固な所が在り、身内はその度に振り回されている。
つまり自分が「こうする」と決めたら、後先や親族の迷惑など考えず無鉄砲に突き進む一族の困り者が吉田虎之助(松陰)だった。
吉田松陰の生き方は織田信長と一緒で、その時代の武士としての常識や藩士としての常識を遥かに超えた発想で行動する為、周囲は困惑していた。
もっとも「常識」と言う文言自体が維新後の造語で、言わばパラダイム(当時の支配的な物の考え方)であるから、そこから逸脱した発想や行動は理解され難いのだ。
当時に常識と言う言葉がなければ非常識も無く、松陰の行動を表現するなら「型破り」と言う事になる。
だが、松陰の場合は只の型破りとはスケールが違い、軽輩と言う身分もお構いなしに藩主にまで建白(意見を奏上)するのだから周囲が振り回される。
しかしその松陰だからこそ、欧米による大植民地時代に日本の活路を創造し得た思想の「範たり得た」のである。
その吉田虎之助(松陰)が、江戸遊学中の千八百五十二年(嘉永五年)に最初の事件を仕出かす。
友人・尊皇攘夷派の熊本藩士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)らと藩(長州藩)の許可を得る事無く東北の会津藩などを旅行した為、これを脱藩行為とされ藩(長州藩)から罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。
所が、ここからが吉田松蔭の真骨頂で、翌年(嘉永六年)に米国のマシュー・ペリーが艦隊を率いて浦賀に来航すると、師の佐久間象山と浦賀に同行して黒船を視察し、その西洋の先進文明に心を打たれる。
翌千八百五十四年、再来日したペリーの艦隊に対して米国密航を望んで、直接交渉すべく小船で近寄りその密航を拒絶されて送還された。
松蔭は米国蜜航の夢破れると奉行所に自首して伝馬町の牢屋敷に送られ、師匠の佐久間象山もこの密航事件に連座して入牢されている。
この密航事件の仕置き、幕府の一部には死罪の意見もあったが、時の老中首座の阿部正弘が反対して助命され、松蔭は藩(長州藩)に送られ長州の野山獄に繋がれる。
翌千八百五十五年(安政二年)、吉田松蔭は杉家に幽閉の身分に処され蟄居する事で出獄を許された。
その二年後の千八百五十七年(安政四年)叔父・玉木文之進が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾する。
吉田松陰は、松下村塾を叔父である玉木文之進から引継ぎ、僅か三年の間に桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔(博文)、井上馨(いのうえかおる/井上聞多)、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など維新の指導者となる人材を教えてる。
なかでも、高杉晋作と並び称された久坂玄瑞には、末の妹・杉文(すぎあや)を娶(めと)らせている。
前述のごとく、吉田松陰 (よしだしょういん)が、叔父・玉木文之進の松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾したのは千八百五十七年(安政四年)である。
松陰 (しょういん)が「安政の大獄」に連座して斬刑に処されのは、千九百五十九年(安政六年)の十月だから、実は多くの有意の門弟を教えたのは僅か三年の間だけである。
だが、松陰 (しょういん)の講義は一方的に弟子に事を教えるのではなく、師弟の間でも論議を交わす有意義なもので、「門弟同士も互いに議論を交わしながら育った」と言える。
実は、吉田松陰の生家である杉家には代々語り継がれている南朝・後醍醐帝の孫皇子・良光(ながみつ)親王(懐良(かねなが)親王の子)の末裔の容易ならぬ言い伝えがあった。
在る日松陰は、周防国佐波郡相畑から学びにやって来た長州藩の下級武士である伊藤直右衛門(伊藤博文)と意見を交わしていて伊藤からその南朝・後醍醐帝の皇子末裔の事を確かめた。
すると伊藤から、「確かにそう言う家が存在する」と回答が得られた。
伊藤直右衛門(伊藤博文)の父・十蔵が水井家に養子に入り、その水井家当主・武兵衛(義理の祖父)が長州藩士・伊藤家に養子に入ると言う三段跳びで士分になる前は周防国熊毛郡束荷村字野尻で農家を営んでいた。
その周防国熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)に南朝の親王の血筋を引く者が居て、永い事長州藩の秘せる隠し玉として「当地の士分の者(佐藤家)」が、藩命を得て「代々養育している」と言うのである。
杉家の言い伝えに符合するこの話し、松陰には脳に灯明が灯るほどの案が浮かんだ。
長門国萩から周防国熊毛までは二十里ほどの距離だが、吉田松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、井上馨、伊藤俊輔(博文)、等を引き連れて会いに行く。
松陰一行が誰と会い、どんな話をしたのかは定かでないが、尊王思想家の松陰にはある計画が浮かんでいた。
「これなら、上手く行くだろう。」
そして松陰は、井上馨、伊藤俊輔(博文)の両君にこの良光(ながみつ)親王の末裔の世話を頼むとともに、久坂玄瑞、高杉晋作、等にある構想を伝えている。
千八百五十八年(安政五年)、尊王思想だった吉田松陰は幕府が朝廷の勅許を受けずに日米修好通商条約を締結した事を知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝(まなべあきふさ) の暗殺を計画する。
所が、西洋文明を受け入れたい開国思想を持つ弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかった為に倒幕計画は頓挫し、松陰は長州藩に自首して老中暗殺計画を自供し、また野山獄に送られた。
翌千九百五十九年(安政六年)、幕府の体制が変わり大老に井伊直弼(いいなおすけ)が就任して「安政の大獄」を始め、野山獄に在った松陰も江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。
井伊直弼(いいなおすけ)は権威を失いつつある幕府を立て直す為に躍起で、幕閣の大半が妥当と考えていた「遠島」を翻して「死罪」を命じた為、この年(千九百五十九年/安政六年)の十月に斬刑に処されている。
師と言う者は、良くも悪くも教え子に一生に影響を与えるものである。
松下村塾の吉田松陰は教え子から多くの明治維新の英雄を輩出させたが、反体制思想を教えたのであるから事の是非を勘案しなければ体制側の江戸徳川幕府から見れば体制崩壊の危険思想を植え付けた事になる。
当然ながら、危険分子を育成する吉田松陰は粛清しなければ成らない。
吉田松陰自身は、安政の大獄に連座して刑死するが、この松下村塾出身の藩士の多くは、尊皇攘夷を掲げて倒幕運動を主導し、明治維新の原動力となった。
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