武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)
兵法に優れ、武術の達人だった武蔵坊弁慶が、幾ら源氏の血筋とは言え自発的に義経に臣従するのは如何にも不自然である。
武蔵坊弁慶に付いては、当時平清盛と対立していた比叡山から派遣され、源氏再興を謀った「義経付軍事教育顧問」説も浮かんでいる。
つまり武蔵坊弁慶は、最澄が興した天台宗の総本山・比叡山延暦寺の「修験者(山伏)だ」と言われている。
これが事実であるなら、当然義経の影には「修験者(台蜜山伏)」のネットワークがあり、奇跡的な義経の戦闘方法を、彼らが影で支えていたのではないだろうか。
智謀と怪力で「主・源義経を助けた」と言われる武蔵坊弁慶には詳しい経歴が不明で、比叡山に入山したが乱暴が過ぎて追い出された事に成っている。
牛若丸(義経)と武蔵坊弁慶の出会いの場とされる京・五条橋は、当時まだ存在しなかった。
従って、出会いシーン「京・五条橋の下り」は後世の創作である。
牛若丸(源義経)と弁慶の「五条橋に於ける出会い」の下り以外の有名な脚色・創作例は、日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六(正勝)の「矢作橋の出会い」、宮本武蔵と岩流(佐々木小次郎)の「舟島(巌流島)の決闘の詳細」などが挙げられる。
弁慶については後の創作が多く、手の付けられない乱暴者が義経に強者の鼻をへし折られて臣従した事に成っているが、そんな愚かな乱暴者が突然悟って知将に成るなどおよそ創作劇的である。
また、義経主従都落ちの後、畿内周辺に潜伏する義経一行を比叡山の僧兵らが庇護しており、義経と比叡山の僧兵の関係を伺わせるが、史実の弁慶については都落ちした義経・行家一行の中に弁慶の名がある以外は、ほとんど明らかではない。
本来弁慶の詳しい経歴が不明なのは、それこそ「密命を帯びた工作員だったから」と考えるのが順当である。
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