源頼朝(みなもとのよりとも)
幼名を、「鬼武者」と言った。
平治の乱の折に父義朝に従い、十四才で初陣し、平家に敗れて捕らえられるが、幼少の為に平清盛の継母・池禅尼の助命嘆願もあり処刑を免れ、伊豆の国(いずのくに)・「蛭ヶ小島」に流される。
平治の乱の折に、源頼朝(みなもとのよりとも)の父・義朝に従い共に討ち死にした長男と次男が居たが側室の腹だった。
この妾腹の子を庶子と言い、この場合庶兄が二人いた事になる。
この時代、身分違いの女性は、幾ら愛されても「妾、側女」で、正室にはしかるべき釣り合いの取れた女性(にょしょう)を娶る。
従って、正室(由良御前)の腹である頼朝が三男であるが、世継ぎ(家長)に成る。
源頼朝は平治の乱の折に父・義朝に従い十四才で初陣し、平家に敗れて捕らえられるが、幼少の為に処刑を免れ、伊豆の国(いずのくに)「蛭ヶ小島」に流刑とされる。
その流刑先の監視役が、後に源頼朝の正妻となる北条正子の父・北条時政だった。
伊豆・蛭ヶ小島は狩野川流域の砂州の一郭に在り、周囲を湿地帯に囲まれた沼地の中の島で、現在は水田に囲まれてヒッソリと在る。
多感な時期を、源氏の棟梁の血筋として生まれたばかりに囚われの身として過ごした源頼朝は、周囲を監視に囲まれ心傷付きながら孤独の中で育った筈である。
この流人時代が長かった為に、頼朝は猜疑心が強い性格になったのではないだろうか?
そして初陣の平治の乱も、再起の旗揚げをして自らが指揮した石橋山の合戦も敗退して、戦にはトンと自信がない武将だった。
この源頼朝が、関東武士の代表と成って平家の勢力を討ち、征夷大将軍に就いて所謂武士として始めての政権・鎌倉幕府を開いたのである。
【源頼家(みなもとのよりいえ/鎌倉幕府二代将軍)】に続く。
【源実朝(みなもとのさねとも/鎌倉幕府三代将軍)と鶴岡八幡宮暗殺】に飛ぶ。
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