松平春嶽(しゅんがく/慶永・よしなが)
ちなみに、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子となった結城(ゆうき)秀康は、本来は徳川家康(とくがわいえやす)二男で、長男・信康切腹の後は徳川家の跡取りにもなれる血筋である。
しかし、豊臣家滅亡後も徳川家に復する事なく、越前(福井県)に松平家を興し、明治維新の幕臣側立役者の一人、松平春嶽へと続いて行くのである。
この結城(ゆうき)秀康が徳川家に復さず越前松平家を起こす経緯」には、織田信長(おだのぶなが)の隠された構想に拠る意志が働いていた。
しかしながら、この信長の思考は異端であり、明智光秀(あけちみつひで)や家康の先祖からの「氏(血統)の思想」とは合致しなかった。
松平春嶽 (まつだいらしゅんがく/慶永・よしなが)は、公武合体派ながら幕府親藩の藩主としては珍しく尊攘派勢力にも理解を示し、幕府に拠る長州・毛利藩(萩藩)征討に反対するなど、討幕軍からも一定の評価を得た人物である。
松平春嶽 (まつだいらしゅんがく)は明治維新動乱期の越前(福井)藩主だったが、生まれは徳川御三卿・田安家の八男坊として江戸城内・田安邸に産まれている。
十一歳の時、越前(福井)藩主松平斉喜(まつだいらなりさわ)養嗣子となり、斉喜(なりさわ)の死去によって越前(福井)藩主に就任した。
マシュー・ペリーが浦賀に来航した頃(千八百五十三年/嘉永六年)、二十六歳になっていた春嶽は強硬な鎖国攘夷論者で、海防強化を主張し水戸藩主徳川斉昭の海防参与任命を薩摩・島津藩世子・島津斉彬とともに働きかけて実現させている。
その後春嶽 (しゅんがく)は、総領事ハリスが下田に着任(千八百五十七年/安政三年)して通商開国を迫った時に鎖国攘夷では国際的に通用しないとして開国通商論者に転じている。
松平慶永(まつだいらよしなが/春嶽)は、後に伴に四賢候と称された宇和島藩第八代藩主・伊達宗城(だてむねなり)、土佐藩第十四代藩主・山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)、薩摩藩第十一代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)と連携して幕政に関与を図り存在感を誇示した。
将軍継嗣問題では一橋慶喜を推していたが、千八百五十八年に幕府が朝廷の勅許なしで条約に調印(違勅調印)すると、定められた登城日ではないにも関らず、斉昭らと登城して大老・井伊直弼(いいなおすけ/彦根藩主)を詰問した。
所が井伊直弼の反撃に合い、その不時(勝手)登城を理由に、春嶽 (しゅんがく)は僅か三十一歳で隠居・謹慎に処せられた。
藩主を退(しりぞ)かされ江戸霊岸島に幽閉された春嶽 (しゅんがく)だったが、「桜田門外の変」で井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺されると謹慎を免除され、その後幕政参与を命じられている。
春嶽は参与に任じられると、公武間の対立を解消するための将軍・家茂の上洛を進言し、京都の尊攘派勢力対処策として、武力制圧ではなく公武合体派連合(薩摩藩ら公武合体派大名・公家が連携して公武一和の国是を決定する)策を主張し幕府にその意見を認めさせている。
千八百六十三年、春嶽三十六歳の時に将軍に先発して入京し、先に上京していた将軍後見職・一橋慶喜や守護職・松平容保とともに公武合体派勢力挽回に務めたが、京都の情勢は尊攘派に有利で、公武合体派連合策は挫折した。
同じ年に起こった「禁門の政変」に拠って攘派が失脚して公武合体派が政権を握ると、春嶽 (しゅんがく)は再び上洛し、慶喜・容保ら公武合体派諸侯とともに朝廷参与に任命される。
その後、朝廷参与を辞任、長州征討をにらんで陸軍総裁職に転出した松平容保に代って京都守護職に就いたりしたが、その間役職を引き受けたり離れたりの出入りが激しく、長州征討策に関しては最後まで反対だった阻止できず、幕府軍不利の戦況の最中に将軍家茂が大坂城で病没し休戦となっている。
徳川慶喜の大政奉還、王政復古後は明治新政府の議定、大蔵卿など要職を担う一方幕府と朝廷の間に立って慶喜の政権参加に尽力して、明治維新後の初期にも重要な役割を果たしている。
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