松浦高俊(まつらたかとし)
つまり松浦(まつら)党は、瀬戸内海に於ける「一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)」、「屋島の戦い(やしまのたたかい)」、「壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)」と言う一連の源平合戦に西国方(平家方)として参戦していた。
松浦氏の娘婿に、前九年の役にて源頼義、源義家率いる軍勢に厨川柵(くりやがわのさく・岩手県盛岡市)で破れ、降伏して四国配流、後に九州に配流された宗任(むねとう)の子孫・安倍季任がいて、婿入りして松浦実任(まつらさねとう・三郎大夫実任)を名乗り、北部九州で勢力を拡大して行く。
松浦実任(安倍季任)の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近だったので、西国方(平家方)の水軍として活躍し、転戦している。
しかし元々弱い結合体の松浦(まつら)水軍の本流は壇ノ浦の戦いに形勢不利と悟って大半が源氏方に寝返り、平家討伐の源氏方大将・源義経(みなもとよしつね)の下に寝返る。
平家に反旗を翻した水軍・松浦(まつら)党は、伊予水軍・河野氏と連携して平氏討伐の功を挙げる。
為に松浦高俊(まつらたかとし)一党は孤立し、高俊(たかとし)は生き残ったが現在の山口県長門市油谷(周防国日置郷・藩政時代は大津郡)に流罪となった。
松浦本流に裏切に遭った松浦高俊は長門国油谷に流されて旧来の安倍姓に復したが、裏切った本流の一部は松浦家として鎌倉時代、室町時代を経て戦国大名となり、江戸時代を平戸藩六万三千石として明治維新まで生き残った。
この松浦高俊(まつらたかとし)の子孫が長州・安部家で、近年総理候補や総理を輩出している山口県の名家・安部家である。
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