平安京(へいあんきょう)
そのひとつは七百八十九年に始まる千年の都・平安京(へいあんきょう)の造営で、もう一つは朝廷にまつろわぬ民・東北蝦夷征伐である。
この桓武天皇(かんむてんのう/第五十代天皇)に拠る平安京(へいあんきょう)への遷都には、方位学を始めとする「陰陽寮」の占術呪詛知識の結集が力を発揮している。
そして日本列島の西日本を統一した大和朝廷が、いよいよ東北にまで勢力を伸ばす大戦略の始まりだった。
七百八十四年(延暦三年)、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代天皇)は強力な天皇親政政権を目指し脱天武天皇系の貴族や寺院の勢力が集まる大和国の平城京から長岡京を造営して遷都した。
これは天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)系の桓武天皇(かんむてんのう)が天武天皇(てんむてんのう/第四十代)系の貴族や寺院の勢力を脱して自らの独自政権の確立を意図した為である。
しかし長岡京遷都後は都と朝廷が不幸続きで僅か九年後の七百九十三年(延暦十二年)、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代天皇)は臣下を集め、長岡京の北東十kmに位置する山背(やましろ)国北部の葛野に再遷都を宣言する。
平安京(へいあんきょう)は現在の京都府京都市中心部にあたる山背(やましろ)国葛野・愛宕両郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。
桓武天皇(かんむてんのう)は、平安京(へいあんきょう)の造営にあたり長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認めるが、ここにも政治的意図があった。
既存の寺社勢力をけん制する為に、桓武天皇(かんむてんのう)は大陸修行から帰国したばかりの空海(くうかい/弘法大師・こうぼうだいし)と最澄(さいちょう/伝教大師・でんぎょうだいし)に目を着け、新たなる寺社勢力の育成を目指した。
つまり空海(くうかい/弘法大師・こうぼうだいし)と最澄(さいちょう/伝教大師・でんぎょうだいし)は、「中央の政治事情に恵まれて重用される」と言う幸運にもめぐり合った訳である。
そしてこの二人の大師は桓武帝以後も時の帝の庇護を受け、空海(弘法大師)の真言宗と最澄(伝教大師)の天台宗両宗門は急速に信仰を広め勢力を拡大する。
まぁ、この二人の大師の幸運も「御仏の加護」と言えない事も無い。
空海の真言宗と最澄の天台宗は、時の桓武天皇(かんむてんのう)の意向を受けて天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)が仕掛けた陰陽修験の取り込みを図り、真言宗当山派(東密)と天台宗本山派(台密)を創設して神仏習合の修験山伏組織を持つ。
いずれにしても桓武天皇(かんむてんのう)は、仏教の知識と能力に優れて既存の政治権力とは無縁の僧である空海や最澄を迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から新都を守ろうと考え、中国から伝わった風水に基づく四神相応の考え方を元に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣(なら)うものとした。
七百九十四年(延暦十三年)秋の十月に桓武天皇は新都に遷(うつ)り、翌月に平らかで安らかな都を願い「この都を平安京(たいらのみやこ)と名付ける」と詔(みことのり)を下す。
これに拠って平安時代が幕を開けた。
その後、凡そ千年に及び天皇の住まいし都だった平安京(へいあんきょう)は、明治維新を経て江戸の地に遷都され、江戸は東京と名を変えて日本の首都となる。
天皇の住まいし都・平安京(へいあんきょう)は、千八百六十八年(慶応四年/明治元年)に江戸(東京)に遷都(えどせんと)されるが、時代としての「平安時代(へいあんじだい)」の呼び名は千百八十五年(以前は千百九十二年説だった)の鎌倉幕府成立の時点で「鎌倉時代」と代わっている。
【江戸(東京)遷都(えどせんと)】に続く。
参考小論【大和(やまと)のまほろば(マホロバ)】に飛ぶ。
この記述は、【日本史時代区分大略・一覧表】に掲載しております。
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