雛鶴姫(ひなずるひめ/南の方)
護良親王(もりながしんのう)は天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に尊雲法親王として入っていた。
この時に門室を置いたのが東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺だった事から、大塔宮(おおとうのみや)と呼ばれた。
その後門跡を継承して門主となり、後醍醐天皇の画策で天台座主となって居るが、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府討伐の旗を挙げる。
父帝・後醍醐に助力する為還俗した護良親王(もりながしんのう)は、北畠親房の娘(名は立花姫)を娶り妃とした為、雛鶴姫(南の方)は側室だったが、氏社会の男女は今のように自由に正夫婦には成れなかったが、護良親王と雛鶴姫(南の方)のような若い恋人同士には、身分違いでも妾(側室)の道はあった。
南の方、或いは竹原滋子とも呼ばれた藤原雛鶴(ふじわらのひなずる)は、良く正妻の北畠(源)親房の娘・北畠源立花(きたばたけみなもとのたちばな/立花姫)と混同されるが、藤原雛鶴は大塔宮譲良(おおとうのみやもりなが)親王が最も愛した妾室(側室)である。
建武の新政(親政)成立に大きく寄与した大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)だったが、やがて父・後醍醐天皇の寵姫・阿野廉子(あのかどこ)の讒言(ざんげん)もあり、「皇位簒奪を謀った」とされて後醍醐の意を受けた名和長年、結城親光らに捕らえられ、足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られて鎌倉将軍府にあった尊氏の弟・足利直義の監視下に置かれる。
大塔宮(おおとうのみや)譲良(もりなが)親王は、しばし寝顔を眺めた後、南(の方)の頬を軽く撫でて見た。
夢の中なのか、南は吐息の様な声を発して寝返りを打った。
親王は、褥(しとね)の傍らに身を横たえて優しい寝息を立てている南(の方)が、狂惜しく愛しかった。
その寝顔さえ、かけがえの無い宝に思えた。
それは、間違いなく愛だった。
愛する者への思いは胸中複雑で、一口で「愛」と言うが、愛はそう簡単なものではない。
実は愛情にも、直感的なものと時間をかけて育まれたものとがある。
勿論それを、理屈で意識した訳ではないが、二人の愛は時間をかけたものであり、揺るぎない物に育っていた。
だからこそ、雛鶴姫(南の方)は命をかけて護良(もりなが)親王に同行し、一途に鎌倉まで付いて来た。
この時代、「妻間婚(つままこん・男が妻の家に通う)時代」が終焉を迎え、「一夫一婦制」が定着して武士を含む貴族社会の恋愛は、歌や文(ふみ)のやり取りから始まる。
しかし、実は恋愛と結婚は別にするのが普通で、結婚となると家と家の結びつきが第一となる。
それで、本命の恋人が愛人(愛妾)に収まる形態をとる事になる。
それは、当時の貴族(氏族)社会の一般的な合意だった。
そう考えると、木曾義仲の巴御前や源義経の静御前の立場が見えてくる。
この時代の、大塔宮(おおとうのみや)護良(もりなが)親王における「南の方」も、その類である。
現在、伊豆の国と駿河の国の地堺・伊豆の国木瀬川の智方神社に大塔宮譲良(おおとうのみやもりなが)親王の首塚が残っている。
後醍醐天皇の命に拠り、足利家の本拠地鎌倉・東光寺の土牢に幽閉されていた大塔宮譲良(おおとうのみやもりなが)親王が、足利尊氏の弟・足利直義の家臣・淵辺義博に切り殺される。
護良親王の遺骸は鎌倉・東光寺の土牢に一時そのまま放置されたが、都より親王に従い身の周りの世話をしていた雛鶴姫(南の方、あるいは竹原滋子とも言う)と呼ばれる寵姫・雛鶴姫(ひなずるひめ/南の方)に、その変わり果てた宮の御首(みしるし)だけを救い出される。
雛鶴姫は伊豆の国木瀬川の畔まで逃れて来たのだが、折悪しく洪水で木瀬川が氾濫し止む無くその地に埋葬した。
その地は今、駿河国と伊豆国の国境・木瀬川の畔を護る智方(ちかた)神社として、護良親王の御陵墓(首塚)が祀られている。
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【持明院統(じみょういんとう)】に飛ぶ。
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皇統と鵺の影人
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