服部半蔵(はっとりはんぞう)
服部氏の存在を記す文献として有名なのは、あくまでも伝承であるが聖徳太子(摂政 ・せっしょう)は秦氏(はたし/はたうじ)族系の河勝(香具師の祖)伊賀の国人、服部氏族(はとりべ・はっとりしぞく・伊賀忍者の祖)と大伴氏族の大伴細人(おおとものさひと・甲賀忍者の祖)を使って「各地の情報を収集した(忍術と聖徳太子)」と伝えられる。
彼らは、修験者(陰陽山伏)兵法と武術を習得して「聖徳太子の手足になった」と考えられ、伊賀(いが)・甲賀(こうか)の発生に欠かせないのが修験道の「存在の歴史」である。
この秦氏族と大伴氏族が、その後の大王(おおきみ・天皇)の交替の歴史の中で臣王一族としては衰退して行き、その一族の一部が土着、土豪化して「伊賀者、甲賀者となって行く」と言う推測が成り立つのである。
また服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)者の観阿弥と言う所から、能楽の継承者は「伊賀・服部氏の血筋」と言う訳である。
徳川家康の伊賀越え(本能寺の変後)は、織田信長の伊賀攻め敢行の翌年の出来事である。
徳川家の歴史書には便宜上「神君伊賀越え」と称されているが、それらには源氏の末裔を名乗った徳川家の表向きに対する「嘘」が存在した。
また、徳川家康との密約で影に廻った明智光秀の事を抹殺する必要があったからだ。
この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが光秀から家康警護の命を受けた伊賀衆である。
その際の伊賀の棟梁・服部半蔵の伊賀越え功で江戸城に「半蔵門」が作られ、公儀お庭番として登用されている。
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