農地解放と新円切り替
この敗戦は、国民にとって大きな不幸ではあったが、結果的にはその後を見て、新生日本を作る上では「あながち、悪い事ばかりでは無い。」とも言える。
只、ここに至るまで、「余りにも犠牲が多かった」事は、確かである。
コーンパイプにサングラスのアメリカ男が、横田基地に降りて来て、日本を、「民主化」と言う名の元に大改革をしたのである。
コーンパイプの男(ダグラス・マッカーサー)には、日本を早急に自立させる使命があった。
おりしも、「東西冷戦」の中、長くはお荷物として、日本を抱えては居られない。
彼の改革は多岐に渡っているが、ここでは、あえて、経済改革にかかわる大きな柱を二つ程上げて見たい。
一つは「新円切り替」という名のデノミの実行である。
通貨の単位を百分の一にし、銭単位の通貨を無くし、一円を最小通貨とするとともに、個人の資金量の平均化を謀って、新生日本で国民が平等にスタートできるように、「払い戻し限度額を設けて制限を一人百円まで」とし、新たに発行された新札または、横一・五cm、縦二・五センチ程の「証紙を張った旧札のどちらかのみ有効」として、富の実力以上にだぶついた通貨(インフレ)の整理をした。
終戦後直ぐの日本は、半年で物価がニ倍になる急激なインフレに見舞われ、政府はそれを抑える為、千円札を市場発行した半年後の昭和二十一年ニ月二十五日、強引な「新円切り替」を実施する。
これはその時点で流通している「五円札以上の全ての紙幣を無効にしてしまう」と言うものだった。
その為五円札以上の所有者は十一日間の移行期間の内にそれを全て銀行に一旦預金して「限度額一人百円」の範囲で新円を払い戻してもらわなければならなくなった。
インフレ抑制の為に預金封鎖を断行し、新円と旧円の切り替えが急がれ、その間「旧紙幣に証紙(しょうし)を張って使用する」と言う時期もあった。
戦前、戦中に、甘い汁を吸って肥えていた一部の人々の偏った蓄財は、この新円交換限度額で「使用不能」と成り、「紙屑」と消えて行き、「軍と財閥は組織を解体された。」のである。
今一つは、「農地解放」である。
彼は、戦後日本の復興に、「障害に成る」、であろう制度を知っていた。
「地主、小作制度」である。
当時の作地は少数の大地主の所有で、多くの百姓はそれを借りて生産していた。
これは、農産における富を少数の地主に独占され、土地の所有も固定される制度であった。
経済活動の活性化に、「消費力の増大や土地の流動化」は不可欠である。
その原資となるものが、この制度の中にあった。
千九百四十五(昭和二十年)年末の「農地解放」まで存在した「地主と小作の関係」も、実は村里共同体の成せるものである。
簡単に言うと、当時の税である年貢未納者を互助するシステムが、村を媒介とした村里共同体として機能し、年貢を立て替える事に拠って土地の所有権が移り、「地主小作関係」を作る結果になったが、それに拠っても村里共同体としての村里規模の自主的維持をはかっていた。
その大地主の所有する小作農地を、小作人の所有に移す事が、すなわち「農地解放」であった。
平常時にはけしてやり得ない改革だが、なにせ敗戦国である。
占領軍に対し、地主も、嫌も応も無かった。
結果、貧しい小作農家は、「降ってわいた幸運」で、収入も増え、彼らを主力に消費は増加する。
暫くすると、土地を売って現金を掴む者、アパートやマンションの経営に乗り出す者、経済活動の一郭に占める「農地解放」の役わりは、大きく、効果的に波及していった。
これを境に、日本は、経済的繁栄を謳歌し、やがて「世界有数の経済大国」への道を歩み続けた。
勿論、少し遅れて発展した優秀な製品を作り出す「工業技術」なども、その要因では大いにあるが、土地の効率的活用なくしては、それも望めなかったのではないか。
つまり、中小企業の工場用地一つとっても取得が楽になったのである。
しかし、この繁栄の歯車も、四十年間も回り続けると、加熱して来る。
「バブル経済」の始まりである。
その後の出来事は、記憶に新しい。
コーンパイプの男(ダグラス・マッカーサー)の置き土産は、長い、長い導火線を辿り続けた後に、見事、はじけた。」のである。
この導火線に赤々と火を灯したのは、皮肉にも東西冷戦が熱をもって表面化した朝鮮半島の「不幸」な出来事だった。
北を支援するソ連と中国を主力とする「共産主義」対、南を支援する米国を中心とする「資本主義」との代理戦争に、近隣の朝鮮半島が舞台とされてしまった事が、日本に「特需景気」をもたらし、戦後復興の第一歩を踏み出す力となった事は事実である。
他国の不幸が結果的に日本経済の恵みとなった事は「手離しでは喜べない」事実であるが、少なくとも、これは日本が引き起こした事ではない。
バブル経済が起こり、やがて導火線は燃え尽き、見事はじけて、日本は一つの転機を迎えた。
「土地神話」が、終わりを告げたのである。
それが、今日まで十五・六年にも及ぶ長い不況の始まりでもある。バブル経済が崩壊して、「資産価値」と言う富が、日本中から消えて行った。
地価や株価が半分に成り、やがて三分の一に成り、日本経済の「活力」は失われた。
これが、経済大国から借金大国と呼ばれる変身の始まりだった。
ほんの少し昔、日本は「外国に負けない為に」と「富国強兵」の名の下に国策を推し進め、その結果領土は広がり、富は財閥と軍閥が独占し、一部の財閥と軍部は確かに良い思いをした。
その結果、国民は国が富めば「いずれ豊かに成る」と希望だけを持たされて、実情は、長年「娘を遊郭に売る生活」を強いられて、一度も良い思いをする事無く昭和二十年八月の敗戦を迎えた。
つまり、「富国強兵」は「富民強兵」では無いのである。にも関わらず、最近、またゾロ「国際競争力」の名の下に、一部大企業の優遇策を実行し、格差社会が進行している。
戦後も六十年間以上を経過して、過去を知らない若い人が増えている。間違えてもらっては困るが、国が富む事と国民が富む事はかならずしも一致しない。
政府は、段々に「末端まで景気が廻る」と言うが、大企業の「国際競争力」を維持するには、「低賃金の効率的労働が半永久的に続く」と言う絶対条件が必要である。
つまり、現在の政権政党・自民党の政策は、過去の「富国強兵政策」を「国際競争力政策」に置き換えただけである。
民主国家・日本国の民衆は、明治維新以後のおよそ八十年間弱、民衆が騙された手法に、再び「騙され様」としてはいまいか?
「富国強兵」の名の下に、財閥を育てた過去の日本がどう言う結果になったのかは、誰でも知っている。
結局の所、益々財閥に都合の良い政治が行なわれて軍事国家色が強くなり、破滅の道を選ぶ結果になった。
それが敗戦でご破算に成り、戦後の中小企業に活力があった時代は、日本経済全体が活況だった。
それを稚拙な金融政策で見捨てて来た。
多くの人々の受け皿(働き口)は中小零細企業で、採用の選別を前提とする大企業ではない。
国際競争力の確保は、地に足の付いた長期的な国力の維持発展の為にも、底辺の中小零細企業の重点育成を強化する道があったはずで、それなら未来の若者に等しくチャンスと夢の場所を与えられたはずである。
実は、「美味しいから」と、翌年の「種」まで食べ尽くしてしまったような形振り構わないやり方が、この五年間の金融機関優遇、大企業優遇の金融政策だった。
残念ながら、団塊世代の築きあげた中小零細の事業基盤は、金融機関と大企業に食い尽くされ、今更取り返しが付かないまま老後を迎え、国家の負担世代に成りつつある。定年の世代になって「再チャレンジ」と言われても、金融環境を含め、強大化しつつある資本に対抗する術は無い。
極端な事をすれば必ず咎めは出るもので、中小零細企業が生きていれば、団塊世代や若者達の受け皿(働き口)は残っていて、まだまだ国家の負担世代には成らない現役労働者が、多数居た筈である。
政策には良い面と悪い面が必ず伴うもので、別の見方をすれば農地解放は良い事ばかりではない。
一方でこの農地解放が農地の所有権の細分化に結び付き、小規模耕作地の農家が多数出現した事に拠る農作の非効率化を指摘する意見もある。
敗戦当時の日本が立ち直る起爆剤と成った占領軍の「農地解放政策」が、少数の大地主から小作農家に農地が分割されて、結果小規模・零細の農家ばかりに成ってしまった。
現実に他国と比べ、一戸辺りの耕作面積の小ささは農作の効率化の枷と成って輸入農作物と比べ生産コストが高コストと成って居、農地解放の負の部分である。
それで外国の大規模農家の真似が出来ないから、どうしても生産効率が低くなる。
しかしながら、この負の部分だけを今になって挙げ連ねて農地解放を悪政と結論付けるのは余りにも単純である。
戦後の経済史に於ける農地解放に拠る確かな経済発展の起爆剤的役割を、全否定してしまって良いのだろうか?
但し現在の日本では、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)と言う国際協定への加盟ついて、日本の農業が全滅しかねない悩ましい状況に置かれている。
【第六巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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