能舞(のうまい)
服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)者の観阿弥と言う所から、能楽の継承者は「伊賀・服部氏の血筋」と言う訳である。
国家情報機関の仕事の一部として世論操作の目的を持ち、官製メディアの役割を担ったのが初期修験道師組織で、神の威光をでっち上げる為の神事としての神楽舞(神話伝説物語)に始まり、中央貴族の白拍子舞や地方の田楽舞・豊年踊りなどに分化して行く。
この過程で、どう見てもそのルーツが忍び術と思われる「軽業師」と言う見世物も現れるが、その技も元は修験道の術(忍び術)が「基礎に成って居た」と考えられる。
つまり少なくとも江戸初期位までは、この芸能部分を表の顔とした隠れ武芸者が居たのである。
更に時代が下がると、娯楽性が益して大衆芸能化した阿国歌舞伎や高級芸能の能楽舞と分化が進み、やがて男歌舞伎や芝居、猿楽能と成って脚色された英雄が舞台の演目として活躍する大衆娯楽に成って行くのだ。
猿楽能や歌舞伎踊りは、公家や大名の屋敷に招かれたり、投宿先の寺に設(しつら)えた特設の舞台も使われる。
世の常で、酒と女の有る所、気が緩むのが男である。
座敷に呼ばれれば、戯言(ざれごと)の端々に思わぬ情報も拾える。
事に拠っては、隙を見て暗殺に及ぶ機会も得られる。
従って、伊賀・甲賀・雑賀と言った修験系郷士から、重要な目的を持って派生したのが古典芸能の一種・能(のう)舞である。
その能(のう)舞の家系は観阿弥の長兄・宝生大夫の末裔を称し、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)者の観阿弥と言う所から、「伊賀・服部の血筋」と言う訳である。
また能楽の観阿弥、世阿弥親子の伝承では、服部氏の元と成った秦氏の秦河勝(はたのかわかつ)を祖先としているが、その経緯は忍術と聖徳太子(しょうとくたいし)を参照の事。
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