徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
水戸徳川家で編纂された「大日本史」には、幕府方として基本的に南朝の正当性を調査して資料を蓄え、何時でも防衛的に北朝の現朝廷をけん制する政治的な目的を持って調査されていたのだ。
その資料が二百五十年も蓄積されて、皮肉にも水戸徳川家では「水戸学」と呼ばれる独特の尊皇思想歴史観が育って行く。
この「水戸学」が、幕末期の水戸藩士の尊皇攘夷運動に大きく影響し、水戸藩の藩論は他の御三家や御三卿家とは違い勤皇の志士達にシンパシーを持つ情況に在った。
所が、マシュー・ペリーの黒船来航と言う砲艦外交に直面した幕府大老・井伊直弼(いいなおすけ)が、攘夷の意志を持つ孝明天皇の意向無視して現実的な選択をし、勝手に開港をしてしまう。
やがて勤皇の志士達は倒幕に走り、薩長土肥の各藩を中心とした圧力を軟化させる目的で尊皇攘夷の一郭を占める水戸藩から将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)を選ぶが、時勢はそんな事では幕府の凋落を止めるには到らなかった。
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、江戸幕府・徳川家最後の征夷大将軍で御三家・水戸徳川藩出身の江戸幕府第十五代征夷大将軍である。
十四代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の将軍後見職として後見を務めていた徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、千八百六十六年(慶応二年・年末)将軍家茂の死去後江戸幕府第十五代将軍に就任する。
千八百六十七年には、薩長(薩摩藩・長州藩)による討幕運動の推進によって、十五代将軍徳川慶喜がこの年の十一月九日に明治天皇に「大政奉還(政権返上)」を行なった上で公武合体を目指すが、大政奉還により江戸幕府は事実上滅亡、翌年の王政復古の大号令と、なだれ的に明治維新に繋がって行くのである。
千八百六十八年(慶応四年正月)、岩倉具視(いわくらともみ)が王政復古の大号令と徳川慶喜の「辞官納地発令」実現に漕ぎ着け、「鳥羽・伏見の戦い」が起こり、旧幕府軍を残したまま大坂城から海路江戸城へ逃げ戻る。
徳川慶喜は朝廷から追討令を受けて謹慎し、勝海舟(かつかいしゅう)の進言を受け入れて江戸城を無血開城し、戊辰戦争へと導いて江戸幕府は滅んだ。
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の将軍在位は、王政復古の大号令までの僅か一年の間であったが、折からの動乱の中、在京在阪(京都・大阪)に終始する生活で江戸城で執務を行なえなかった唯一の将軍である。
維新後、徳川慶喜は駿府(静岡県静岡市)で謹慎生活を送っていたが、勝海舟の復権運動もあり明治天皇に謹慎を解かれると公爵として大正時代まで生きた。
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