徳川綱吉(とくがわつなよし)と生類憐みの令
兄・家綱(五代将軍)に世嗣の子供が無かったので、家綱が四十歳で死去すると、綱吉は将軍宣下を受け五代将軍となる。
その綱吉が、徳川吉宗十四歳の時に越前国(福井県)丹生三万石の藩主に据えた理由は、自らのスペアーとしての将軍への経緯経験が有ったからではないだろうか?
この五代将軍徳川綱吉の治世に徳川幕府としては最大の好景気時代・元禄を迎えている。
しかし未曾有の好景気は、後の時代の浪費や不正を育てる温床でもある。
その浪費や不正は、綱吉以後の幕府財政悪化に成って現れ、新井白石の「正徳の治」の失敗を招いている。
何故なら、「朱子学(儒教)」は己を律する抑制的な教えであるが、言わば建前で、本音を別に持った人間は、利害を突き詰めると「本音で行動するから」である。
第五代将軍徳川綱吉(とくがわ つなよし)の治世の前半は、基本的には善政として「天和の治」と称えられている。
しかし治世の後半は、悪名高い「生類憐みの令」など、迷信深い悪政を次々と敷き、「犬公方(いぬくぼう)」綱吉に対する後世の評判は悪い。
実は、第五代将軍徳川綱吉は、天変地異に見舞われた不運の将軍である。
千七百三年(元禄年間)に、突如、相模国から関八州(江戸府内/関東域)に掛けて大地震に襲われ、甚大な被害を出している。
この関東地方を襲った大地震は、「元禄大地震(げんろくおおじしん)」と呼ばれ、マグニチュードは八・一と推定推定される大地震だった。
元禄大地震(げんろくだいじしん)は、後の、千九百二十三年(大正十二年)に発生した「関東大震災(かんとうだいしんさい)とは同型である」と解明されている。
甚大な被害を出したこの大地震で、元禄の好景気に沸いていた江戸府内周辺は、陰りを見せ始める。
所が、一度の大地震でも大変な事なのに、徳川綱吉の不運は元禄大地震(げんろくだいじしん)だけでは終らなかった。
僅か三年後の千七百七年(宝永年間)、今度は東海道が我が国最大級の大地震「宝永地震(東海 東南海 南海連動)」に見舞われる。
宝永大地震は、現代に大警戒されている関東・東海・南海・東南海連動型地震で、遠州灘・紀州灘でマグニチュード八・四の「史上最大」と言われる巨大地震だった。
そして、だめ押しするように宝永大地震から四十五日目、今度は活火山・富士山の「宝永の大噴火」が始まり、山腹に宝永山と火口が出現した。
「宝永の大噴火」は、数日間江戸の街を薄暗く覆い、「市民の人心をも震撼せしめた」と伝えられている。
延宝房総沖地震(えんぽうぼうそうおきじしん)に始まり、一連の天変地異である元禄大地震(げんろくおおじしん)と宝永大地震・宝永大噴火(ほうえいだいふんか)に見舞われた第五代・綱吉(つなよし)は、すっかり信心深く成って「生類憐みの令」の悪名を残す。
犬は神の使い(狼=大神)であり、確かに「生類憐みの令」は悪法だが、将軍在位中に次々と天変地異に見舞われれば、「何かの因果か?」と、徳川綱吉が迷信深くなるのも頷ける話しでは在る。
関東・東海・南海・東南海連動型地震は、今でこそ百年~百五十年周期で連動発生する事で知られているが、元禄・宝永の江戸期に生きた第五代将軍・綱吉には「何かに祟(たた)られている」としか考えられなかったのである。
話を判り易くする為に、将軍・綱吉を襲った治世上の不幸(天災)を考慮せず、理不尽な法律で庶民を苦しめた事だけ後の世に描かれる不幸な将軍でもある。
徳川綱吉(とくがわつなよし)については第四巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第四巻をお読み下さい。
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未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2008-04-28 00:51