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徳川秀忠(とくがわひでただ)

徳川秀忠は千五百九十八年に豊臣秀吉が没すると父・徳川家康の命を受けて帰国、家康の名代としてまだ戦国期の残り香が漂う旧北条氏方郷士が多数残る二百数十万石と言う広大な新領国運営と守備の任に抜かりなく充たっている。

徳川家康が上方(京・大阪)に在って影響力を駆使し続け、豊臣家にプレッシャーを掛け、全国の諸将の取り込み工作を進められたのも、この地味ながら非凡な二代征夷大将軍・徳川秀忠の力量に負う所が大きい。

関ヶ原の戦い遅参した事で武将としての評価が低い徳川秀忠であるが、天下を手中に収めた偉大なる親に対し比較凡なる二代目多い中、徳川長期政権の礎を地味に築き上げた二代将軍はけして凡庸な二代目ではない。

実はこの徳川秀忠には容易ならざる秘密が有った。

大きな謎なのだが、三代将軍・徳川家光の古文書には何故か二世権現や二世様などと記された文章が多数存在し、故に徳川家光が「家康と春日局の子で在る」と言う説が散見される。

いずれにしても三代将軍・徳川家光を二世と数え書き記すは、いったい何を意味しているのだろうか?

そこで問題なのは、三代将軍・家光が二世と数えるのであれば二代将軍・徳川秀忠の存在は飛ばされている事になり、つまり秀忠が養子で正体が「明智光忠である」と言う話にも信憑性が出て来る。

血統主義は、氏族が自分達有利の為に構築した「建前」である。

無論、信長の本音はそんな「建前」など屁とも思っては居なかったが、織田信長程その血統主義を、冷静に利用した男は居ない。

そこで、信長が取った二つの手段が、「奇想天外」である。

自分が最も信頼する明智光秀(あけちみつひで)が、親代わりで育てていた「光秀の従弟」を、家康の子として押し込む事である。

「地味温厚で、父・家康に忠実律儀なだった」と言う徳川秀忠評の裏に隠された家康への思いは、織田信長の「織田家以外の血筋を途切らせる」と言う奇想天外な織田帝国構想の陰謀に端を発していた。

織田信長の奇策・徳川秀忠】へ続く。

参考・【徳川秀忠関ヶ原遅参・上田合戦】へ飛ぶ

★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-28 00:59  

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