徳川家・世良田系図の謎
松平元康(家康)は、「三河の守」を名乗るにあたり、源氏一族の新田氏支流の世良田氏流の「得川氏の子孫」と称して「徳川」を名乗るが、決定的な証明は為されていない。
この謎に取り組むと、三河松平家と世良田・得川氏に、たった一つだけ、心当たりの「接点」が浮かび上がった。
松平元康(幼名・竹千代)は幼少(五歳の頃)のみぎり、駿河今川家の人質に出されたその旅の途中、戸田康光(とだやすみつ)の謀略により、尾張の織田信秀の元へ送られ、幼少時代の一時を織田家に浚(さら)われて、人質ながらも信長と「竹馬の友」で育っている。
その時二人を見守っていたのが、信長の傅役(お守り役)・平手政秀である事は容易に思い当たる。
徳川家康(とくがわいえやす)と源氏の接点を敢えて言えば、家康(いえやす)の生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)の実家・水野氏が、清和源氏満政流を称している。
水野氏は、清和天皇第六皇子・貞純親王(さだずみしんのう)の第六子経基王(つねもとおう/賜名・源経基)の王子・源満仲の弟にあたる鎮守府将軍・源満政を祖とし、満政の七世・重房の代に至って小川氏を名乗り、その子・重清の代に至って「水野氏を名乗った」とされる。
しかし家康(いえやす)が敢えて名乗ったのは、母方・源満政流ではなく河内源氏・新田流で、あきらかに平手政秀(ひらてまさひで)が称する新田源氏・世良田系図だった。
「尾張諸家系図」に拠ると尾張国・平手氏は、三代遡れば清和源氏流・新田氏の一族である。
平手氏は、千三百八十五年(至徳二年)に南朝・宗良(むねなが)親王に属して信濃浪合の合戦で戦死した世良田有親の子・世良田義英に始まるとされている。
その曾孫を平手政秀(ひらてまさひで)とし、つまり皇統護持を旨(むね)とする源氏の血筋である。
主君「信長の野望」を座して見るに忍びなかったのかも知れない。
この尾張国・平手氏の世良田系図を徳川家康が朝廷に届け出て、源氏の長者・征夷大将軍を認められたには、家康が平手氏の養子と成り、「世良田系図の得川(徳川)氏を名乗った」と手順を踏めば、賀茂流・松平氏ではなく源氏新田流・徳川氏は怪し気ながら成立する。
近年この「尾張諸家系図」に拠る平手氏の清和源氏新田氏の一族説には疑義を唱える説が存在するが、平手政秀(ひらてまさひで)が茶道や和歌などに通じた文化人と評され織田信秀の重臣として主に外交面で活躍、信秀の名代として朝廷に御所修理費用を献上するなど、織田家の朝廷との交渉活動も担当していた。
この平手政秀(ひらてまさひで)自刃後、織田家の朝廷との交渉活動を担当したのが、同じく清和源氏土岐氏一族・明智光秀である。
つまり、徳川家・世良田系図の接点は、信長の傅役(お守り役)・平手政秀を置いて他に在り得ないだ。
徳川家康が朝廷に申請して新田源氏・徳川氏を名乗る事を許されるには、家康の三河守叙任運動の頃からの伝(つて)に在った関白・近衞前久(このえさきひさ)の助力に拠る所が大きいとされる。
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皇統と鵺の影人
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