豊臣秀吉その出自の疑惑
生家と言われる中村郷も山深い里ではない。
世間から「サル」と呼ばれる由縁は、やはり「その出自に起因するもの」と思われる。
この国には、古来から人別にも記載されない山窩(サンカ・サンガ)と呼ばれる山の民(非定住民・狩猟遊民)が居る。
秀吉の出自については、山窩(サンカ・サンガ)出身説があり、彼のあだ名とされる「サル」は、「山猿から来ている」とも言われて居る。
そしてそれを裏付ける証拠が、木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉と出世する過程の随所に、その出自故の特殊な事象が顔を出して居るのである。
信長ほどの男が、単に「目端が利く」程度の男を、その才知だけで認める筈は無い。
日吉丸(木下藤吉郎・秀吉)に、もっと大きな価値があったのである。
つまり秀吉には、氏族には関わり無い特殊な人々の動員力があった。
それが、信長の認めた秀吉の力量だった。
氏族の草と深い関わりを持ち、彼らを自在に操る明智光秀と氏族には関わり無い特殊な人々の動員力を持つ羽柴秀吉(木下藤吉郎)は、織田信長の天下布武の両輪だったのである。
尾張国中村郷に広大な屋敷を構えていながら「氏素性が無かった」と言われる日吉丸(秀吉)の出自、不都合なら他の武将の様に氏族の系図を買うなり乗っ取るなりをすれば良い。
所が秀吉は、誰にでも解る形で妻方の姓・木下を名乗ってそれ(系図の作文)をしなかった。
木下藤吉郎・・・羽柴秀吉が羽柴を名乗ったのは「織田家の有力武将・丹羽氏と柴田氏から一字ずつ貰う」と言う世間的にも解り易い手段だった。
この事自体も、敢えて「氏素性が無い事」を世間に強調しているようで、「何処かの誰か達に何かをアピールし続けていた」と受け取る方が至極まともな受け取り方ではないだろうか?
考えられるのはただ一つ、「氏素性が無い事」は、秀吉にとって何らかの価値があった。
つまり、「氏素性が無い者達」の棟梁として君臨し続ける為に、氏族の系図取得は邪魔だったのではないだろうか?
そしてそれは、奉(祭)らわない者として正史には現れない大きな勢力が秀吉の出現で融合される桃山期まで存在していて、そうした出自などに拘らない天才・織田信長がその仕掛け人だったのではないだろうか?
明智光秀には日向の守と言う官位と惟任(これとう)と言う九州名族の姓、丹羽長秀には惟住(これずみ)と言う九州名族の姓を朝廷より与えさせていながら、羽柴秀吉には筑前守の官位だけで姓を与えなかった事も、或いは秀吉が氏族以外の族長(奉(祭)らわぬ者)の血筋だった証かも知れない。
羽柴秀吉が氏族であれば、源・平・橘・藤の系流か古代豪族系の姓を有していた筈で、つまり豊臣秀吉(とよとみのひでよし)には遡る氏系図が無かった。
だからこそ、新しく朝廷依り豊臣姓を賜った。
重ねて言うが、羽柴秀吉と言う男は氏族の端に当たる有姓氏族の末裔・「百姓」ですらも無い。
つまり有姓氏族の末裔ですら無いから、妻方(北政所「おね(ねね)」)の木下姓を借りて名乗ったほどである。
従って、安易に秀吉の出自を「百姓」と表記するのは間違いだからこそ、山の民(山窩/サンカ・サンガ)の出自として「猿(サル)」と表現したのである。
そしてまた、秀吉が氏族でない勢力を結集できる血統の出自だからこそ、常識の枠に嵌らない思考の織田信長は自らの手元に置いて重用し、秀吉が天下を取れた要因にもその氏族でない勢力が結集しポスト信長を勝ち抜いたからである。
秀吉の出世の裏付けとして「山窩(サンカ・サンガ)出自説を採らない」となると、天下取りの合理的説明が付かないから「人たらしの才能」などで誤魔化す事になる。
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