天海僧正(てんかいそうじょう)
そして不思議な事に、天海僧正と徳川家康の過去には、ほとんど接点が無いのである。
いったい如何なる経緯で、徳川家の知恵袋天海僧正は徳川家康に見出されたのであろうか?
天海僧正(てんかいそうじょう)、明智光秀説の傍証は枚挙に暇が無いが、それは正解であり正解でない。
天海は、家康、秀忠、家光の三代に使え、没年齢は、百八歳とも百三十五歳とも言われている。
これは、眉唾である。
いくら長生きでも、安土桃山から江戸時代初期にかけての事で、二代将軍・秀忠と同年代の生まれなら、長生きして家光に任えるのも判る。
我輩が思うに、二人分の生涯が、「ダブって計算された」と見るのが妥当である。
この辺りも、残された文献を盾に頑として、光秀は長生きだったと主張する方も居られるが、書いてある文章を読めるのと中身を読み解くのとには、明確な違いが有る。
徳川秀忠が明智光忠であるなら、その後の事の説明は付き易い。
天海僧正が、明智光春なら更に説明が付く、何しろ幼少の頃の明智城落城より光秀に付き従い、寝食、生死を伴にして来た「従弟同士」である。
それを、親代わりの天下の秀才明智光秀が、心血を注いだ知略で天下の秀才に育て上げて、歴史が再び二人を引き合わせたのであれば此れ程強い信頼の絆はない。
この事が事実であれば、天海がいきなり幕府で重用されるに、もっとも自然な理由と言える。
天海僧正には「千里眼の超能力があった」と言う逸話がある。
千里眼とは、言うまでもなく遠方の出来事を見通す事のできる能力だ。
天海の別名「慈目大師」の由来ともなったのが、この千里眼である。
天海はほとんど喜多院に住んでいたが、江戸城中で起こった事や家康のいる駿府城(静岡市)の出来事を事ごとく知っていた。
時折半眼になって、そうした事を納所坊主に話して聞かせたが、後で確かめてみると、「全て天海が言った通りだった。」と言うのである。
読者にはもうお分かりだろうが、天海が光春(二代目・光秀)であり、光秀の専門分野である諜報手足として伊賀衆の諜報機関、服部半蔵以下を操れるからこその能力では無いだろうか?
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by mmcjiyodan | 2008-04-28 02:57