伝教大師(でんぎょうだいし/最澄)
征服部族として神の国(神のご託宣・神の威光を持って統治する)を成立させていた大和朝廷としては、中国の進んだ文明を取り入れて国家を発展させるには、中華文明に根を下ろした「仏教」を容認する必要があった。
そして、渡来信仰として当時無秩序に広がっていた「妙見信仰」を、空海や最澄を大師として遇する事で朝廷の影響下に置く計画だったのかも知れない。
七百八十五年(延暦四年)、三津首広野(みつのおびとひろの・最澄/さいちょう)は十九歳の時に東大寺で具足戒を受ける。
同年七月、比叡山に登り山林修行に入り、大蔵経を読破し、七百九十七年、内供奉(ないぐぶ)十禅師となる。
最澄(さいちょう)と名を改めた首広野(おびとひろの)は、賀茂家の期待を一身に担って、八百四年遣唐使(けんとうし)の遣唐留学僧として通訳に門弟の義真を連れ、空海とおなじく九州を出発する。
中国に到着すると、天台山に登り、湛然の弟子の道邃(どうずい)と行満(ぎょうまん)について天台教学を学び、更に道邃に大乗菩薩戒を受け、(しゅくねん・漢字表記不明)から禅、順暁(じゅんぎょう)から密教を相承する。
現在の中国・浙江省(せっこうしょう)天台県に在る国清寺が、最澄(伝教大師)が学んだ中国・天台宗の総本山である。
そして帰国後、最澄(さいちょう)は、比叡山において台密(天台宗)を開山する。
最澄の帰国当時、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代天皇)は病床にあり、最澄は招かれて宮中で天皇の病気平癒を祈ってる。
八百六年(大同元年)、最澄の上表により、天台業二人(内訳は、止観(しかん)業一人、遮那(しゃな)業一人)が年分度者となる。
これで最澄(天台宗)は、先行していた宗門の南都六宗に準じる格式を認められ、国に認定された宗派になった。
これが日本における天台宗の開宗である。
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