天武天皇(てんむてんのう/大海人皇子)
しかし一年後、天智大王(てんちおおきみ)の皇子・大友皇子が弘文大王(こうぶんおおきみ・第三十九代天皇)として即位(?・正式の即位では無い/明治三年追認)または即位寸前に天智大王(てんちおおきみ)弟とされる大海人皇子(おおあまのみこ)の反乱「壬申(じんしん)の乱」が起きて合戦となり、大海人皇子(おおあまのみこ)の勝利、弘文天皇(後世追認天皇)の自害で、壬申(じんしん)の乱は幕を閉じる。
壬申の乱(じんしんのらん)は、六百七十二年に起きた「日本古代最大の内乱?」であり、天智大王の太子・大友皇子(おおとものみこ)に対し、皇弟大海人皇子(おおあまのみこ、後の天智大王(てんちおおきみ)が紀伊半島とその周辺に居住する海人族(かいじん/隼人・呉族)系の地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。
反乱者である大海人皇子(おおあまのみこ)が勝利すると言う、史上例の少ない内乱であった。
天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。
大海人皇子(おおあまのみこ)は、甥の弘文天皇(追認皇位)を殺して、帝位に付き、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)を名乗った事に成るが、この交代劇、様々な異説がある。
最たるものは、ここで「皇統が一旦途絶えた」とする説である。
この異説の根拠を挙げておく。
まず、天智大王、天武天皇、弘文追認天皇の兄弟、叔父甥の年齢の絡みが、一致しない。
計算によって天武天皇(大海人皇子)は、天智天皇の四歳年上の「弟」に成るそうだ。
大海人皇子(おおあまのみこ)が、もろもろの文献に突然登場する事にも、疑問を投げかけられている。
幼い頃の事が、どこにも書いて無いのだ。
皇子としての皇統の名に、「大海人」の使用例が無いのである。
また、兄弟にも関らず、天智大王の娘を、四人までも天武天皇が妃として皇子時代にもらっている。
これは近親婚の多い朝廷にあって、一人くらいは考えられるが、大概はどちらか一方が違う親の、異父または異母兄弟である。
同じ父、同じ母を持つ「兄の娘四人」は当時としても異常で、まるで血縁の薄い有力豪族を抑える為の「政略婚」の様である。
そして、額田王(ぬかだのおおきみ)の存在がある。
額田王は最初、大海人皇子(おおあまのみこ/第四十代天武天皇)の妻で、子までなしている。
その子は、後に弘文天皇の妃に嫁ぐ。
その額田王を、兄の天智大王が自分の妃に奪っているのだ。
しかし歴史学者によっては、額田王は、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の元に嫁いでも、大海人皇子(おおあまのみこ)との関係も「続いていた」とする者もいる。
額田王については、「万葉歌人」で有名な他は余り判っていない。
中臣鎌足の妻鏡王(かがみのおおきみ)の子とか妹とか言われている。
いずれにしても、あらゆる事が兄弟の関わり方ではないのだ。
それとも宮廷内が、ローマ帝国末期の様に、よほど乱れた「愛欲の世界だった」と言うのか。
こうした不自然な関わりから、当時、ほぼ朝鮮半島統一が成されつつあった(金春秋<キム・チュンチュ>王=武烈王・太宗第二十九代)の弟が、「大海人皇子(おおあまのみこ)の正体ではないか」と言うのである。
わが国には、「血統至上主義」の為に封印された歴史の数が多い。
これも、「血統至上主義」の為に「封印された歴史の一つではなかったのか?」と言う疑問である。
尚、持統大王(じとうおおきみ/天皇・第四十一代持統朝)は、天武天皇(てんむてんのう/大海人皇子)に妃として嫁いだ天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の四人娘の内の次女・鸕野讚良(うののさらら)が夫・天武天皇(てんむてんのう)亡き後を継いで女帝として即位したものである。
尚、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)は、大伴家持が個人的に編纂したとされる万葉集に作品が残る万葉歌人(まんようかじん)でもある。
詳しくは、小論【大海人皇子(おおあまのみこ)は何者か?】を参照下さい。
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