高杉晋作(たかすぎしんさく)
清和(河内)源氏の一族の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清が常陸国武田郷(現:茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて武田氏を名乗った事に始まる武田氏の支流で、高杉はその系図からして、正統な尊皇派なのは当り前の事だった。
その武田氏は、嫡流が甲斐国守護に任命された他、安芸国・若狭国・上総国に庶流があり、その内の安芸国武田氏の末裔が、戦国時代には出雲の尼子氏に仕えた。
その後、始祖となる高杉春時の代に毛利氏に仕えて備前国三谿郡高杉村を領し、武田姓より高杉姓に改める。
つまり、安芸国武田氏の枝の末裔が、毛利家歴代藩士(家臣)・家禄百五十石~二百石の高杉家と言う事になるのである。
高杉晋作は、千八百三十九年(天保十年)長門国萩城下(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・二百石)を父に、母・みちの長男として生まれる。
晋作は、吉田松陰の松下村塾で学び、松陰門下生のリーダーの一人でもある。
高杉晋作は、政務役筆頭・周布政之助(すふまさのすけ)の後援を受け、長州藩の若手藩士達のリーダーとして共に尊皇攘夷を推進した。
晋作も稀代の天才の部類であるが、どうもこの天才と言われる人種、最後まで生き残って、自分の手がけた仕事の行く末を見る運には恵まれないらしい。
長州藩で倒幕を主導した晋作もその口で、倒幕を見る事無く肺結核の為に死去している。
晋作は、第二次長州征伐(四境戦争)では病に犯されながらも小倉方面の戦闘指揮をして勝利に導く戦果を上げた。
しかし無理が重なり、その後の晋作は肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、大政奉還を見ずして二十七歳でこの世を去った。
高杉晋作には時間が無かった。
時期を逸すれば、事は頓挫する。
高杉晋作は、病を隠してがむしゃらに事を運んだ。
彼は本来、保守的な意見に迎合するのが苦手で、その事には自信がない。
それでも、こんどばかりは、自説を曲げても藩論を統一させたのはこの遠大なシナリオを書いたのが、自分だからである。
自らの体の変調に気付いてから、もうだいぶ時間が経過している。
日に日に体が衰弱するのが判る。
しかし、自分の目的を達するには、走り続けるしかない。
勿論、政治体制変革の狼煙(のろし)は常に下積みから燃え上がるものだが、正直、繰り広げられた倒幕運動・明治維新の動乱は、血統至上主義社会だった維新前の氏族社会に在って「コンプレックスを抱えた男達の物語」と言って過言ではない。
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