滝川一益(たきがわかずます)
「本能寺の変」当時は上州上野国群馬郡・厩橋城(前橋城)に在って北条氏の勢力と対峙していた。
滝川一益が上野国に在って北条氏の勢力と対峙するには経緯がある。
千五百八十二年(天正十年)になり、信長が武田征伐を企図し、嫡男の織田信忠に軍を与えて信濃国へ攻め込ませた。
この際に信長四天王の一人・滝川一益は織田氏嫡男・信忠の軍監として攻略戦の主力となっている。
この武田征伐に於いて一益は敵将・武田勝頼を追い詰め、天目山麓で討ち取る功績を挙げている。
一益は功により上野一国と信濃の内ニ郡を与えられ、同時に関東統治の取次役・東国取次を命じられ、甲斐国で北条氏政の使者が信長に拝謁した際に一益が申次(もうしつぎ)を行っている。
いずれにしても、駿河国今川氏、甲斐国武田氏が滅亡し残る相模国北条氏の背後を脅かす意味で、滝川一益の上野国配置は絶妙のものだった。
余談だが、滝川一益(たきがわかずます)が登場したので、言って置きたい事がある。
織田家の家臣・滝川一益(たきがわかずます)について、近江国甲賀の土豪出身と言われ、出自に決定的な証拠に成るものが無かった為、俗に「鉄砲の名人で在った」と伝えられている事から、この一益、甲賀忍者の出自肯定説と、単なる憶測に過ぎないと否定する説があるが、そうした発想は、現代の既成概念に囚われた無駄な論議である。
この物語で一貫して言っているように、そもそも、そうした線引きは「修験武術全般の一部である忍術」の認識に合わず、現代の発想に拠る専門業務的な「忍・武分離」の安易な線引きは禁物である。
柳生一門もそうだったが、その発生の経緯により、武術も忍術も修験武術全般の一部であったから、滝川一益(たきがわかずます)がその両方を修めていても不思議ではない。
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