武田信玄(たけだしんげん)
先祖の甲斐源氏・武田氏は北条時政(ほうじょうときまさ)の説得に応じて源頼朝の鎌倉幕府成立にも援軍を送った名流である。
その武田氏の祖は、後世の当主からは河内源氏の棟梁・源頼義の三男・源義光(新羅三郎義光)と位置づけられる。
但し甲斐源氏・武田氏の本祖は、義光の子である源義清(武田冠者)が常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田、旧勝田市)に於いて武田姓を名乗ったとする説が有力で、義清の嫡男・清光の乱暴が原因で父子は常陸を追放され、「甲斐国へ配流された」と伝えられる。
父・武田信虎の代にほぼ甲斐統一が達成されて居り、信玄はその後を継いで戦国大名として領土を拡張して行く。
信州に侵攻して諏訪氏を傘下に収め、上杉謙信とは何度も死闘を繰り広げていた。
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千五百七十二年 、甲斐源氏・武田氏・武田信玄は将軍・足利義昭の命を受け、大軍を率いて京都への上洛(京都への進軍)の準備に取り掛かる。
北条氏との同盟締結により背後を衝かれる心配のなくなった信玄は、手始めに、予(か)ねてよりの念願だった遠江を手中にすべく千五百七十二年(元亀三年)十月、甲府を出発した。
この時武田信玄が率いた軍勢は二万五千騎と言われる。
この大軍が信濃国の高遠から飯田、さらに青崩峠および兵越峠を越えて遠江国に侵入した。
【三方ヶ原合戦】に続く。
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皇統と鵺の影人
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