世良田系図(せらたけいず)
永く上野国新田郡「得川(えがわ、或いはとくがわ)郷」と呼ばれていた。
鎌倉時代初期の河内源氏流新田氏本宗家の初代であり、上野国新田荘を本拠とした新田義重の四男義季が、得川郷の領主となって新田次郎と称し、父・義重から新田郡世良田郷(太田市世良田町)も譲られ、その嫡男・頼氏が世良田郷を継承して世良田氏を興し、世良田頼氏を称した。
その時得川郷は、世良田頼氏の庶兄・頼有が継承し得川(えがわ)四郎太郎と称して得川(えがわ)家を起こした。
「得川」は本来は「えがわ」と読んでいたが、後に「とくがわ」と読むようになり、系図上では新田氏系得川氏の末裔と言う事にされていて、系図上徳川将軍家の前身世良田・得川氏「発祥の地」と成っている。
ちなみに、家康の墓所・東照宮廟は、この近くの日光山に天海僧正の手に拠って祭られている。
徳川家康が朝廷に申請して新田源氏・徳川氏を名乗る事を許されるには、家康の三河守叙任運動の頃からの伝(つて)に在った関白・近衞前久(このえさきひさ)の助力に拠る所が大きいとされる。
なお新田氏本宗家からは、鎌倉末期に新田義貞(にったよしさだ)が出て後醍醐天皇に味方して南朝の忠臣となっている。
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皇統と鵺の影人
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未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2008-04-28 08:28