千利休(せんのりきゅう)
幼名は与四郎(與四郎)で後に宗易(そうえき/法名)、そして抛筌斎(ほうせんさい)と号した千利休は、今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられた茶人である。
織田信長が堺を直轄地とした時、宗易(そうえき)は「茶道具の目利き」として目を着けられ、信長に茶頭として雇われ手元に置かれて世に認められる。
その後本能寺の変で信長が自刃、「天下布武」の後を継いだ羽柴秀吉(豊臣)にも茶人として登用され、茶会で正親町天皇(おおぎまちてんのう) に茶をたてる為に、南宗寺の大林宗套(おおばやしそうがい)から「利休」の号を賜っている。
言うまでも無いが、わび茶(草庵の茶)の完成者として知られる大茶人である。
利休の祖父は足利義政の同朋衆だった「千阿弥(せんあみ)」と言い、「その名の姓を取り、千を姓とした」と、利休の曾孫である江岑宗左(こうしんそうさ)に拠り家伝されている。
堺の南宗寺の大林宗套(おおばやしそうがい)から与えられた「利休」と言う居士号を合わせて、「千利休(せんのりきゅう)と号していた」と言われて居る。
千阿弥 (せんあみ)は足利義政・義尚に仕えた同朋衆(どうぼうしゅう)で、千利休の祖父とされる。
同朋衆(どうぼうしゅう)とは室町時代以降江戸幕府時代を通じて明治維新までに、将軍や大名諸藩の当主近くで来客の給仕などの雑務や接待の芸能にあたった武家の職名である。
時宗を起こした一遍上人の下に芸能に優れた者が集まった事が同朋衆(どうぼうしゅう)と言う役職の起源とされ、時宗を母体としているに為に阿弥衆、御坊主衆とも呼ばれ、阿弥号を名乗る通例があるが阿弥号であっても時宗の僧であるとは限らない。
同朋衆(どうぼうしゅう)は剃髪していた為に坊主と呼ばれたが、この物語のそもそも論のごとく氏族のくくりは在っても武士と神官・僧侶は線引きなど無く、同朋衆(どうぼうしゅう)も出家している訳ではない。
おもな同朋衆の芸としては猿楽能の観阿弥・世阿弥、同じく猿楽能の音阿弥 、茶道の毎阿弥、唐物・茶道・水墨画の芸阿弥、唐物や茶道・水墨画・連歌・立花・作庭などの能阿弥と相阿弥、作庭・連歌を得意とした善阿弥、囲碁の重阿弥などが有名である。
大茶人・千利休(せんのりきゅう)、一時は豊臣秀吉の重い信任を受けたが突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられ追って切腹を申し付かった。
むごい事に利休の首は一条戻橋で晒し首にさせられたが、秀吉勘気の理由は不明で有る。
秀吉勘気の憶測であるが、人がリラックスしたり感動するのは【右脳域】の感性で、災害時に遭遇した人は限りなく優しくなれ、損得の計算を忘れて救助を心掛けその事に人は皆感動する。
文化芸術はその【右脳域】の範疇にある。
茶道における千利休と豊臣秀吉の師弟の例で言えば、千利休は【右脳域】の感性で「侘び茶」の茶道を大成した。
所が、豊臣秀吉は茶道を【左脳域】の計算で扱い、金ぴかの黄金で飾る愚を冒した。
これでは千利休の茶道の本質を否定され、両者が対立しても仕方が無い。
利休の祖父が任じていた同朋衆とは、武将の側近として使えた僧形の武士の事で、この当時は僧体のまま武将でもある者も多くいたが、それとは異なり武ではなく芸能・茶事・雑務・話し相手と、言わば世話係(茶坊主)として仕えていた。
いずれにしても、「阿弥」を名乗る同朋衆の出自は、氏族や有姓百姓である。
そして陰陽修験道や神楽舞を源とする武道や演芸は、「氏族のたしなみ」としての武芸百般の内で、演芸は諜報活動の側面を持っていた。
その事から考えられるとすれば、千利休が出自違いの豊臣秀吉と対立する事も、充分考えられない事は無い。
それにしても、室町幕府最盛期の第三代将軍・足利義満頃に発達した文化芸術・茶道、華道、芸能の家系には、影に諜報員家系の疑いが付き纏(まと)って居る。
当然の事であるが、室町政権に諜報機関が在っても不思議は無い。
それが、文化芸術を隠れ蓑にした同朋衆が、影で負っていた役目であれば、足利義満が力を入れた室町文化、また別の側面が見えて来ないとも限らない。
何しろ、最も平和的に受け取られるのが文化芸術で、何処の屋敷も無警戒に信用される利点があるのだ。
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皇統と鵺の影人
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