柴田勝家(しばたかついえ)
出生においては尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)で生まれたとされるが、千五百二十二年(大永二年)説や千五百二十二年(大永六年)説、千五百二十二年(大永七年)説などが有りこれも定かではない。
つまり余り名家では無かったらしい。
柴田勝家は、若い頃から織田信長(おだのぶなが)の父・織田信秀の家臣として仕え、地位は定かではないが信長の織田家継承の頃には織田家での地位は高かった。
主君・信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕え、信勝を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し、信勝の兄・織田信長の排除を試みる。
しかし千五百五十六年(弘治二年)に信長との「稲生の戦い(いのうのたたかい)」に敗れて剃髪し、信長に降伏して助命されて以後柴田勝家は織田信長に心服して行く。
千五百五十七年(弘治三年)に再び母親(土田御前)にそそのかされた信行(信勝)が謀反の計画を企んだ時には柴田勝家は信長に内通し、信勝(信行)の死後、信長の家臣となった。
しかし、信行(信勝)に与力して信長に逆らった影響か織田信長の尾張統一戦や美濃国・斎藤氏攻めでは用いられなかった。
暫らく不遇を囲っていた柴田勝家だが、京への上洛作戦になって再度織田信長に重用され、畿内平定戦などでは常に織田軍の四人の先鋒の内として参加し、信長の重臣として武功を挙げて織田家での地位を固めた。
織田家に忠誠心の厚い猛将・柴田(権六)勝家は、戦に強く所領の治世にも優れていた。
惜しむらくは、その頑固さ故の融通の無さで、何事にも正攻法を得意とし、謀事は苦手である。
従って信長の信頼は厚かったが、知将系の信長家臣団にあって、実直な勝家とは意見の合わない武将が多かった。
信長の家督相続時の混乱で弟・信行(信勝)擁立に動き、信長に敗れて心服、信行(信勝)を裏切り謀殺に加担した柴田勝家だったが、その後プッツリと勝家の動向を示す資料はなくなり、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った時の記録にも、柴田勝家の名は無い。
桶狭間の合戦に柴田勝家の姿が浮かばないのは、主君・織田信長が出陣に際して明け方に突如陣ぶれを発して、僅(わず)かな従者のみを連れて軽装備の「当世具足」で居城の清洲城を出立したからで、出陣に間に合ったのは、旗本親衛隊(馬廻組)の僅か二百騎余りの手勢だけだったからである。
信長は、家臣がこの期に及んで甲冑などの重軍装に拘る様では機動力を失い、動員出来る二千を動かしては「到底不意打ちなど出来ない」と踏んで、旗本親衛隊(馬廻組)だけの奇襲戦で決着を着ける積りでいたからの証明である。
再度、柴田勝家の武勲が記録に出て来るのは信長が足利義昭を奉じて上洛して以後からである。
柴田勝家については織田軍団の猛将と知られているが、微妙な所で明智光秀や羽柴秀吉とは主君・織田信長の扱いが違う。
織田家相続争いの際、弟・信行(信勝)擁立で信頼を失った勝家も、暫く干されて謹慎した後に赦されて信長の天下布武の一翼を担うようになり、次第に重用されるようになる。
勝家は越前の一向一揆平定後、越前国八郡・四十九万石、北ノ庄城(現在の福井市)を信長から与えられた。
一応の待遇だが、もしかするとこの勇猛なだけで実直過ぎて知略に欠ける武将を、信長は余り信頼していなかったのかも知れない。
まず勝家には、信長の衆道小姓上がりの前田利家、佐々成政、不破光治らの与力を付けられ北陸方面軍総司令官を勤めていたが、前田、佐々、不破は属将ではあるが独立した武将で柴田勝家の家臣ではない。
織田信長が「配下の将を与力に付ける」と言う事は、勝家がさしたる有力家臣を養っていなかったか、それともその能力を疑っていたのか、真偽のほどは判らないが、越後の上杉謙信に「手取川の戦い」で上杉謙信に大敗を喫するなど、てこずっていた事は事実である。
それに比べ、明智光秀と羽柴秀吉は自前の家臣団を率いて多くの武功を次々に上げている。
ここら辺りがこの物語の指摘する所だが、つまり織田家で何代も続いた武将の柴田勝家よりも、浪人上がりの明智光秀と氏も無い羽柴秀吉には信長配下の将を与力に付ける必要が無いほどの「恐るべきコネクションが在った」と言う事である。
柴田勝家とその与力軍団は、上杉氏方の越中国魚津城、松倉城(富山県魚津市)を攻囲中に本能寺の変があって織田信長が横死するも、勝家は上杉景勝の反撃に遭って越中国東部制圧に手間取り、京都に向う事が出来ず羽柴秀吉に遅れを取っている。
その後清洲会議(きようすかいぎ)と呼ばれる織田家宿老会議の評定で秀吉に遅れを取り、更に賤ヶ岳の合戦(しずがたけのかっせん)にも敗れている。
残念ながら、そうした柴田勝家の総合力が後の北ノ庄城落城に結びついたのではないだろうか?
柴田勝家(しばたかついえ)は頑固な直者(じきもの)で、つまり正直者(しょうじきもの)・剛直者(ごうちょくもの)で判り易かったから、周囲の人気が高かった。
このタイプは、明治期の軍人・乃木希典(のぎまれすけ)が同タイプで正攻法一本槍で奇策など用いないが、周囲の人気は希典(まれすけ)も高かった。
だが、戦の結果は二人とも凡将だった。
秀才ではあるが根が善良な関ヵ原合戦敗軍の将・石田三成の様に「正論の徒」の意見が、通らないのがドロドロとした世間の本質かも知れない。
引き換えて、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康などは奇策を用いて勝つ方だったから、直者(じきもの)にあらず曲者(くせもの)だった事に成る。
同様に、希典(まれすけ)と同時期の軍人・児玉源太郎(こだまげんたろう)は曲者(くせもの)だったから二百三高地の陥落に手を貸す事ができたのだ。
【清洲会議(きようすかいぎ)】へ続く。
【賤ヶ岳の合戦(しずがたけのかっせん)】へ続く。
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