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承久(じょうきゅう)の乱

承久(じょうきゅう)の乱は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の没後から数えて、二十二年後の事である。

千二百二十一年(承久三年)五月、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げた。

承久の乱(じょうきゅうのらん)と呼ばれるこの変は、結果的に後鳥羽上皇側が北条政子率いる鎌倉幕府側に敗れた兵乱である。

発端は千二百十九年(承久元年)に三代将軍・源実朝が甥の公暁に暗殺され、源家の血が途絶えた事で、北条得宗(執権家)が勢力を維持する為の名目将軍(お飾り将軍)が必要になり、これを朝廷の権威を利用する為に新将軍に「雅成親王を迎えたい」と申し入れるが、朝廷側との条件交渉が上手く行かずに決裂した事である。

この将軍継嗣問題が、朝廷(後鳥羽上皇)側にも、幕府執権(北条義時)側にもしこりが残る結果と成った。

幕府執権(北条義時)は、止む負えず皇族将軍を諦めて摂関家から将軍を迎える事とし、その年(千二百十九年/承久元年)に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉四代将軍として迎えて名目将軍(お飾り将軍)とし、目論見通りに北条執権家が中心となって政務を執る北条執権体制を確立して行く。

しかし朝廷(後鳥羽上皇)側に幕府執権(北条義時)の専横に対する不満が募って行き、朝廷と幕府の緊張はしだいに高まり遂には後鳥羽上皇が倒幕を決意、北条義時追討の挙兵をするに到る。

もう読者にはお判りと思うが、鎌倉幕府に於いても歴史の表面にこそ現れないが、帝及び公家衆と幕府との間には始終暗闘が在った。

その暗闘の朝廷側に密かに与力していたのが、各地に勘解由小路系の草として根付いた郷士達である。

神の威光を持って統治する朝廷には、武力こそなかったが大きな存在価値が在った。

民を統治する権力にはそれを公認する裏付け手段が必要で、朝廷が任命する官位がその資格証明で在る。

つまりこの国では、古くから朝廷の権威が統治権の公な認証手段で、幕府及び守護・地頭職(御家人)に対する官位の任命権だけは朝廷の権威を利用する公の権限として存在していたからである。

そして当時はまだ、列島の東西で朝廷と幕府の勢力に微妙な温度差があった。

東国武士を中心に本拠を鎌倉に置き、源頼朝を棟梁として樹立された鎌倉幕府では東国武士を中心に諸国に守護、地頭を設置し警察権を掌握していたが、この事は西国武士の不満を誘い、結果西国は鎌倉幕府が実効支配をし切るに到らず依然として西国での朝廷の力は強かった。

つまり根本的な原因を一言で表現すると、政府が二つあり「出先機関が同じ土地に重複している」と言う状態だったのである。

後鳥羽上皇は「流鏑馬(やぶさめ)揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面の武士や近国の武士、大番役の在京の武士千七百余騎が集まった。

後鳥羽上皇は、鎌倉追討軍が官軍で在る事を世間に知らしめる為に、初めて御印(みしるし)となる錦旗(きんき)を藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らに下賜し使用を許している。

翌日、藤原秀康率いる八百騎が京都守護・伊賀光季の邸を襲撃する。

伊賀光季は奮戦して討死したが、その変事は鎌倉に知らされる。

後鳥羽上皇は諸国の御家人、地頭らに北条義時追討の宣旨(せんじ)を発する。

後鳥羽上皇追討に立つの知らせを聞いた時、尼御台と呼ばれていた北条政子(ほうじょうまさこ)は齢(よわい)六十五歳を数える当時としては老女になっていた。

そしてその老女が、実質的に鎌倉の支配者だった。

摂関家から三寅(藤原頼経)を迎え、政子が三寅を後見して将軍の代行をする事になり、世に「尼将軍」と呼ばれるように成っていたのである。

この後鳥羽上皇の宣旨(せんじ)に対し、鎌倉方(東国武士)も動揺を見せたが、尼将軍・北条政子が「今日の鎌倉御家人の繁栄あるは、夫・頼朝のおかげなるぞ。皆の者、獲得した権益を放すまい」と叱咤し、ニ代執権・義時を中心に御家人を結集させる事に成功、団結して京に向かって出撃する。

この時の正子の名演説が「関東武士を結束させた」とされているが、関東武士の本音としては「折角の利権を西国武士に取られる恐れで結束した」と考えるのがまともではないだろうか?

鎌倉を出立して都に攻め上る幕府軍は道々で徐々に兵力を増し、「吾妻鏡」に拠れば最終的には「十九万騎の大軍に膨れ上がった」とされている。

朝廷の権威を信じ、幕府軍の出撃を予測していなかった後鳥羽上皇ら朝廷側首脳は狼狽した。

大軍を擁した幕府軍は易々と都を落とし、朝廷・御所を取り囲んでしまう。

形勢不利と見た後鳥羽上皇は、命惜しさに日和見(ひよりみ)をして幕府軍に使者を送り、この度の乱は「謀臣の企てであった」として義時追討の宣旨(せんじ)を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる宣旨(せんじ)を下す。

上皇に見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら朝廷側に組した武士は東寺に立て篭もって抵抗するが、三浦義村の軍勢がこれを攻め、藤原秀康、山田重忠は敗走し、三浦胤義は奮戦して自害している。

承久の乱(じょうきゅうのらん)が終結すると、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。

討幕計画に反対していた土御門上皇は、自ら望んで土佐国へ配流され、後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流される。

仲恭天皇(九条廃帝・明治以降に仲恭の贈名で復帰)は廃され、行助法親王の子が、後堀河天皇として即位した。

この時政子は、正に女阿修羅となり、「上皇側に組みした者達」を徹底して弾圧している。

京の町は、政子の過酷な弾圧に震え上り、幕府に刃向かうものは居なくなる。

政子は京・朝廷を押さえる為に、「六波羅探題」を設置して、朝廷と関西を見張らせ、北条得宗家(鎌倉幕府執権)の礎を確立している。

また、幕府は西国での多くの没収地を得、これを戦功があった鎌倉御家人に大量に給付した為、鎌倉御家人の多くが拝領地支配の為に西国に移住、幕府の支配が畿内や西国にも強く及ぶように成る。

この承久(じょうきゅう)の大乱に、何故か勘解由小路(かでのこうじ)党総差配・(賀茂)吉次は、後鳥羽上皇の為に積極的には動かなかった。

院(後白河法王)の度重なる日和見で、息子の伊勢(三郎)義盛を失い、権力の非情さが骨身に沁み、未だ覚めやらなかったのである。

「後鳥羽上皇様が、後白河の院様のごとく成らねば良いが・・・」

勿論、上皇の宣旨(せんじ)を届けるなどの雑事はこなしていたが、後鳥羽上皇の倒幕の覚悟に、懐疑的だったのである。

案の定朝廷側に組した武士、倒幕派の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らは上皇に見捨てられている。

この承久の乱の結果、親朝廷派の勢力は衰え、執権北条氏と所領の給付を受けた御家人との信頼関係がより強固に成り、幕府勢力が優勢と成って、北条執権家が事実上の最高権力者と成る。

朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承や大臣の登用などに影響力を持つように成った。

親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、朝廷は親幕派で占められ、以後幕府の意向を受けて朝廷を主導する事と成った。

目の前の敵と対峙し危機を煽る事は、不満を逸らし団結させる為の為政者の高等テクニックである。

「良かれ」としてやってもその結果は行動を起こした側の利に必ずしも適う結果になるとは限らないのが歴史である。

もしかすると、後鳥羽上皇が起こした承久(じょうきゅう)の乱は返って北条執権家の権威を不動のものにする後押しに成ったのかも知れない。


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by mmcjiyodan | 2008-04-28 19:00  

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