宮本武蔵(みやもとむさし)
そして宮本武蔵は、脚色伝説が生み出した庶民の娯楽としてのヒーローである。
公式名乗った宮本武蔵の本姓は藤原、諱は玄信で、藤原玄信(ふじわらはるのぶ)、名字は宮本であるが新免を名乗って居た事もあり、武蔵は通称とされている。
新免を名乗るとするならば、村上源氏流と自称する赤松氏流・新免氏で、いずれ武蔵の出自は確たるものでは無い事に成る。
武蔵は、二天一流(二刀流)兵法の祖とされ、実在は確かにしていた。
著書「五輪書」は有名だが、その書の中に於いて武蔵はハッタリとも思える「新免武蔵守・藤原玄信」を名乗っている。
「五輪書」の内容には、十三歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利、十六歳で但馬国の秋山と言う強力な兵法者に勝利、以来二十九歳までに六十余回の真剣勝負を行い、「全てに勝利した」と記述される。
京都の兵法家吉岡一門との戦いや巌流島(山口県下関市)での試合が、小説、時代劇映画、時代劇テレビドラマ等の題材になり有名な剣豪として伝説上の人物である。
実は伝説上の剣豪なんてヒーローは、本人や後の人々がかなり膨らましてデッチ挙げた物が多い。
武蔵の貪欲に名誉欲を追求して命の遣り取りをした経緯が英雄視されて、そんなに賞賛されるとは、命を大事にすべき人間としての基本の感性が狂ってはいまいか?
まぁ多くの娯楽的脚色から世間の武蔵人気は高いが、そうした人気を寄せる人々のほとんどが小説か映像等を見て心酔しただけで、本当の宮本武蔵像を何処まで知っているかが疑問である。
宮本武蔵は、自伝自称型英雄であり、比較すれば前田慶次郎(まえだけいじろう/利益・とします)は作家創造型の娯楽英雄である。
武蔵の養子・伊織が残した武蔵の記録は、生前の武蔵を知る者によって書かれた事から無批判に用いる傾向が強いが、武蔵を顕彰する為の脚色も多く見られる。
身内でもそんなだから、本人は勿論、当時や以後の物書きが、娯楽性を加味して相当に膨らまして脚色していても不思議はない。
正直な所、武蔵の出生地からして播磨国(現在の兵庫県)説や美作国(現在の岡山県)宮本村説があり、未だ論争の最中である。
生まれは年は千五百八十二年(天正十年)とされ、父親に関しても兵法家の新免無二(しんめんむに)とされるが、実父とも養父とも、親子で無いとも説が別れている。
現存する史料との比較から随所に事実誤認も認められ、定説には到っていない。
著書「五輪書」の冒頭にある記述「歳積もりて六十」に素直に従えば、千六百四十三年(寛永二十年)に数え年六十歳となり、生年は千五百八十四年(天正十二年)となり、武蔵の出生は一致しない。
「五輪書」には「廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者に遭い、数度の勝負を決すと言へども、勝利を得ざると言う事なし(破れた事無し)。」と記述される。
この天下の兵法者多数の中でも・「扶桑第一之兵術吉岡」が、即(すなわ)ち京都の吉岡一門と考えられ、この戦いは文芸作品等で様々な脚色がされ有名であるが、事実としての詳細の確定は出来ては居ない。
武蔵は京で吉岡吉岡一門と戦い、「五輪書」では吉岡兵法家は「滅び絶えた」とされる
だが、「本朝武芸小伝」、「駿河故事録」、「吉岡伝」などの各史文に依ると千六百十四年(慶長十九年)に武蔵戦以降も吉岡家は存続していた記録がある。
その記録とは、禁裏での一般にも開放された猿楽興行で、吉岡清次郎重賢(建法)なる者が警護の者と諍いを起こし切り殺されると言う事件が起った。
これにより「兵術吉岡家は滅んだ」とあり、武蔵との決闘で吉岡一門が滅んだ訳ではない。
また、宝蔵院・胤栄(いんえい)が創始した十文字鎌槍を用いる宝蔵院流槍術を完成させた宝蔵院・胤舜(いんしゅん)がドラマや映画に登場する。
その胤舜(いんしゅん)が武蔵の決闘相手とされるが、この決闘を事実と証明する文献はどこにも無い。
従来、千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、父・無二の旧主君であった新免氏が宇喜多秀家配下であった事からそれに従って「武蔵は西軍に参加した」と言われ、小説、時代劇映画、時代劇テレビドラマ等に採用されて来た。
所が父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していた事を証明する黒田家の文書が存在する。
その事から、父・無二と共に当時豊前を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性も言われ始めている。
つまり関ヶ原の戦い当時の剣豪・武蔵の扱いは、戦局にまったく影響しない「小者」と言うのが現実だった。
また新免無二との関わりについて、当理流の宮本無二助藤原一真と同一人物と言う見方も在り、「武蔵は無二の養子となった」と主張する意見もある。
それとは別に、天正年間に秋月城で亡くなった新免某を無二とする説もあるが、新免無二は明らかに天正年間以後も生存している為、武蔵の新免無二との関わりは不明である。
武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」と言われる「船島決闘」である。
これは慶長年間に豊前国小倉藩領(現在は山口県下関市域)の舟島(関門海峡に浮かぶ巌流島)で、岩流なる兵法者・「佐々木小次郎(通称)と称される人物と戦った」とされるものである。
岩流には俗に佐々木小次郎の呼称があるが、後年の芝居で名づけられ定着したもので根拠はない。
また巌流は岩流の異字表現に過ぎず、史料に拠っては他に岸流・岸柳・岩龍と言う様々な呼称がある。
宮本武蔵(みやもとむさし)と巌流島で戦ったとされる芝居の役名・「佐々木小次郎(ささきこじろう)」こと・実名「岩流」の出自も豊前国や越前国など諸説あり、これも正史としては不確かな状況である。
この舟島(巌流島)の決闘については、地元の伝承や残された各史文に依ると「武蔵に卑怯な振る舞い在って勝利した」とする物が多数在り真贋のほどは不明である。
但し、これは見逃せない状況証拠だが、「五輪書」に岩流との勝負についての記述が全くない事実が在る。
そこを考えると、晩年の武蔵は舟島(巌流島)での岩流との勝負について「自ら語る事を避けていた」と推測する事ができる。
宮本武蔵と岩流(佐々木小次郎)の「舟島(巌流島)の決闘の詳細」以外の有名な脚色・創作例は、牛若丸(源義経)と弁慶の「京の五条橋に於ける出会い」の下り、日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六(正勝)の「矢作橋の出会い」などが挙げられる。
いずれにしても宮本武蔵の武勇伝は、娯楽性を加味して相当に膨らまし創作された伝説上の人物である。
また哲学書と評される「五輪書」も自画自賛の箇所多く、感性の範囲での評価に成る為にその人間性に於いてまったく信憑性が薄く、それを称え尊敬するなどは「実態を考慮しない浅い考え」と言える。
多くの資料を見る限り、宮本武蔵の実像は自作の大風呂敷に拠る典型的な虚像である。
その証拠に、武蔵は「天草の乱」にも参戦しているが、記録によると然したる戦果は挙げていない。
宮本武蔵は自画自賛の宣伝が上手(うま)かったのか世間で評判を得、晩年は熊本城主・細川忠利の肥後熊本藩に客分として招かれ熊本にて七人扶持十八石に合力米三百石が支給さる。
まぁ江戸・徳川幕府成立後の太平な時代、天下無双の武芸家評判料としてはそれでも破格の扱いだが、例え乱世でも剣豪一人の力では戦の戦局に影響は無い。
その虚像が、当時の英雄待望論的な庶民の英雄(ヒーロー)夢想に拠って膨らまされ、人気が出て世間で有名に成った。
「五輪書」に依る武蔵(むさし)の戦法は、「相手の意表を突いた一撃を加えて後、後はガムシャラに切って切って切りまくれ」である。
武蔵(むさし)の「五輪書」、この「相手の意表を突く」とは一体何意を表(あらわ)すのか?
つまり武蔵(むさし)は、けして「正々堂々と戦え」とは言って居ないのだ。
ただし、宮本武蔵を正々堂々尋常(じんじょう)勝負の剣豪とみるからその所業がアンフェアなので在る。
本人自称のごとく「兵法書・五輪書(ごりんのしょ)」に在る「兵法者」であれば勝つ為に伏兵を用意しようが、上から石を投げ落とそうが煮えたぎった油を撒き落そうが立派な兵法である。
剣法と兵法、その違いを理解できない武蔵フアンが世の中に多過ぎ、しかも剣豪は「卑怯な振る舞いをしない」と頑なに信じて武蔵像を創ってしまうのだ。
詳しくは小論・【宮本武蔵(みやもとむさし)伝説の真実】を参照下さい。
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