聖徳太子(しょうとくたいし)=厩戸皇子(うまやどのみこ)
そうした背景の中、推古大王(おおきみ・天皇第三十三代・女帝)が即位し、太子には厩戸(うまやど)皇子が「聖徳」と改めて執政に就任した。
百年後に記述された日本書紀の聖徳太子が現実に存在する人物であれば、聖徳太子の功績は太子一人の功績とは考え難い。
大臣(おおおみ)は蘇我馬子の独占であったから、三人の「共同国家運営ではないか」と思われる。
この頃になって、漸く鉄剣の国産化が始まっている。
この三人の共同作業が、後の聖徳太子の善政である。
当時、いかに聖徳太子が有能であれ、当時勢力絶大な蘇我馬子の協力無しに、冠位十二階や、十七条の憲法の制定が成ったとは考え難い。
なぜなら、用命大王(おおきみ・天皇第三十一代)の母と聖徳太子の母は姉妹で蘇我稲目の娘、つまり「馬子の兄妹」で在った。
つまり、馬子は聖徳太子の叔父であり、更に娘を嫁にして居たから、義理の父でも在った。
厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)の異説を紹介して置く。
聖徳太子は、日本史に於いて最も有名な皇太子の一人である。
しかしこの聖徳太子には様々な疑惑がある。
まずは名前であるが、聖徳太子と言う名は生前に用いられた名称ではなく、没後百年以上を経て成立した「日本書紀」などの史料が初出とされ、つまりは充分に脚色が可能なのである。
聖徳太子と目される厩戸皇子(うまやどのみこ)の没後百年以上を経て成立した「日本書紀が聖徳太子の初出」と言う事は、作文した内容は天武天皇から桓武天皇にかけての編纂で、「和を持って尊し」を言ったのは桓武天皇の側近辺りの進言が採用されたのかも知れない。
そして治世に功績を残しながら、聖徳は太子(世継ぎ)のまま没している。
正史では善政を伝えられるこの聖徳太子だが、本当に存在したのだろうか?
聖徳太子の生前(リアルタイム)の名は厩戸皇子(うまやどのみこ)と言うのであるが、そもそもこの厩戸皇子(うまやどのみこ)生誕の下りがイエス・キリストの生誕伝承と余りにも似ている所から、「日本書紀」が西洋からの伝聞を借用して「創造された人物」との指摘が体勢を占めている。
恐らく皇統の善政を示して神格化を狙った「聖徳太子(厩戸皇子)の創作捏造」と思われる。
こうした伝聞借用の疑惑に関しての事例は、古事記・日本書紀には沢山ある。
例えば古事記によると、神武大王(じんむおおきみ/初代天皇)に始まる皇室の五代前に、高天原から光臨したニニギノ命(みこと)が、「日向の高千穂のくしふる峰に降りた」と記されている。
これをもって、高千穂への天孫降臨とする解釈も多い。
しかしこの「高千穂のくしふる峰」の記述が、朝鮮半島の加耶(伽耶諸国)の建国神話である「加耶国」の始祖・首露王(スロワン/しゅろおう)が「亀旨峰(クジボン)に天降る話・・・と似ている」との指摘が在る。
つまり、「記紀神話(古事記・日本書紀)」の一部は、朝鮮半島・加耶(伽耶諸国)から持ち込み輸入された伝承を採用し加工して記載した疑いが強いのである。
実は、古代ヘブライ(ユダヤ)の「失われた十支族」の日本列島渡来と言う「古代ヘブライ(ユダヤ)伝説」が存在する。
キリストの生誕を擬した「厩戸皇子(うまやどのみこ)=聖徳太子」の誕生逸話の酷似も、或いは古代ヘブライ(ユダヤ)の失われた十支族渡来説を立証するもので、古(いにしえ)の人々が「ユダヤ文化の伝承」を採った結果かも知れない。
聖徳太子の伝承に深く関わる存在として秦氏(はたうじ)が在る。
古代豪族・秦氏(はたうじ)には、ヘブライ(ユダヤ人)の景教徒(ユダヤ的キリスト教徒)説がある。
京都の西に太秦(うずまさ)と言う地名の所があり、その太秦には伊佐良井(イサライ)と言う地名がある。
渡来人系の豪族・秦氏(はたうじ)の氏寺は広隆寺(こうりゅうじ/京都市右京区太秦)であり、建立は秦河勝(はたのかわかつ)である。
広隆寺だが、別名を太秦寺(うずまさでら)と言うのだが、これが中国に伝来したネストリウス派キリスト教=景教(ユダヤ的キリスト教)の寺院の一般名称・大秦寺(だいしんじ/大秦塔)である。
そして太秦(うずまさ)は、古代ヘブライ語の意味では、「ウズ」(光)、「マサ」(賜物)で、「光の賜物を指す」と言う解釈があるそうだ。
推古大王(すいこおおきみ/第三十三代女帝)は、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。
この「皇太子として万機を摂行させた」と言う事は全てを任せたと言う事で、それだけの信頼を置ける相手とは男女の関係が想像されても不思議は無い。
生前(リアルタイム)の名は厩戸皇子(うまやどのみこ)と言うのであるが、「日本書紀」に虚構が含まれている事から、聖徳太子が「虚像である」とした場合、推古大王(すいこおおきみ/第三十三代女帝)と蘇我馬子の男女関係から、「実像はもう一人の御門(みかど)・蘇我馬子では無かったのか」と言う疑惑もある?
その理由であるが、遣隋使に託した遣使の国書の文言に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」とあり、自らを国家を代表する「天子=天皇」を名乗っている点である。
つまり、蘇我馬子またの名を厩戸皇子(うまやどのみこ)が大王(おおきみ・天皇)と対等だった。
大王(おおきみ・天皇)に匹敵する力をもつ臣王(おみおう・御門/みかど)蘇我氏は、歴代の大王(おおきみ)に妃(皇后)を送り込む有力氏族で、歴代大王(おおきみ)とは叔父甥などの血縁関係も多く、逆に女帝の愛人であっても何の不思議も無い。
おまけに大王(おおきみ)は武力を持たないから、女帝が頼り甲斐がある臣王(おみおう)の蘇我馬子と愛人関係に有った方が、治世が上手く行くのである。
日本書紀その他の文献に拠ると、奈良・斑鳩(いかるが)の法隆寺は聖徳太子に拠って創建されたが、太子亡き後に政争に巻き込まれて太子一族は「六百三十余年頃に滅び」、法隆寺の伽藍は太子一族滅亡後に「火災で焼け落ちた」と伝えられている。
実際に火災で焼け落ちたとされる最初の法隆寺の遺構らしきものが発見されているので、法隆寺の存在は確かかも知れない。
だが、問題は聖徳太子とその太子一族の事である。
不思議なのは、焼け落ちて「再建された」とする現在の法隆寺の金堂に、「再建される前から在った」と見られる年代の「太子を模した」とされる本尊・釈迦三尊像そして夢殿に安置されている秘宝・救世観音(くせかんのん)が存在する。
厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)の出現は、日本に於ける釈迦の出現とも言われている。
聖徳太子一族を攻め滅ぼしたのは蘇我氏と言われ、法隆寺が再建されたのは乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)の変事に拠って蘇我入鹿(そがのいるか)を討ち、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・葛城皇子)が「天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)に即位してから」と言うのだから、天智大王にすれば自らの権力奪取の正当性の為にも、厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)の神格化は必要だったのかも知れない。
そして何よりも、厩戸皇子(うまやどのみこ)を聖徳太子と初出したのは百年以上を経ってからの後の事で、辻褄合わせと言うか都合良くと言おうか太子一族が全て滅亡して跡形も無くなる事も謎である。
【忍術と聖徳太子】へ続く。
【遣隋使(けんずいし)と小野妹子(おののいもこ)】へ続く。
詳しくは、小論【聖徳太子は実在したか?その疑惑を追う】を参照下さい。
尚、厩戸皇子(うまやどのみこ・聖徳太子)の異説については【推古大王(すいこおおきみ/第三十三代女帝)】の項目を参照または聖徳太子は実在したか?をクリックしてください。
参考・関連小論【古代ヘブライ(ユダヤ)伝説・秋田美人とナニャドヤラ】はお薦めです。
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