酒井忠次(さかいただつぐ)
酒井氏は安城譜代と呼ばれ、元々松平家中に於ける最古参の宿老家とされるが、その出自は確定せず不明である。
三河国碧海郡酒井村或いは幡豆郡坂井郷の在地領主で在ったと推測される酒井氏であるが、後年作成された酒井氏の系譜に拠ると、鎌倉有力御家人・大江広元(司所別当)を祖とする大江氏の流れを汲み、江広元の五男の大江忠成(一説に海東判官忠成)を開祖とする三河の海東氏の庶流としている。
絶妙のタイミングで入れ替わった正・竹千代(松平元康)が今川義元への人質として駿府に赴く時、正・竹千代(松平元康)に従う家臣団の中では最高齢者として同行したのが酒井忠次(さかいただつぐ)だった。
つまり、三河・松平家に在って酒井忠次(さかいただつぐ)は正・竹千代(松平元康)方の親今川派だった事が、影・竹千代の方の(徳川家康)には拘りが残ったようだ。
酒井忠次(さかいただつぐ)側も同じで、家康の嫡子・松平信康の件で大久保忠世とともに安土城へ助命の口添えの使者に立て、織田信長に無視されて居る。
桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した家康より、家老として取り立てられた酒井忠次(さかいただつぐ)だったが、徳川四天王筆頭とされその後の戦働(いくさばたら)きに大功あるも、千五百九十年(天正十八年)に家康が関東に移封された時、酒井家・嫡男の酒井家次に宛がわれた所領規模が僅か三万石しか与えられなかった事に関して抗議している。
同じ徳川四天王に数えられながら井伊直政十二万石、本多忠勝、榊原康政の両者は十万石と厚遇されたに比べ、酒井家だけが三万石だった差に謎が在り、表向き相応な理由が見当たらない。
唯一考えられる理由が、我輩の推論通りに松平竹千代双子説であれば説明が着く。
駿河・今川家人質時代に正・竹千代(松平元康)の随行武将だった事が、影・竹千代(徳川家康)の拘りであれば、この事が理解出来るのである。
【松平竹千代双子説】についてはこの物語の第三巻の核心部分の一つですので【第四巻の本編】をお読み下さい。
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皇統と鵺の影人
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未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2008-04-29 09:25