坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)
従って、坂上(さかのうえ)一族はこの阿智王の子孫である。
阿智王の出自は、前漢の高祖に遡る。
応神天皇二十六年の御代、一族百人を率いて大和に渡って来た。
一族は帝の勅命により、大和国檜前の地に居を構える事になる。
つまり阿智王は、少し遅れてきた進入部族王のひとりだった。
その十三代子孫が、大納言・坂上田村麻呂であり、二十八代前は後漢の光武帝、十九代前は考霊帝にあたる。
父の坂上刈田丸が、七百七十年(宝亀元年)、陸奥鎮守将軍となって陸奥の多賀城に赴任、大納言・勳二等を贈られた。七百八十年(宝亀十一年)、田村麻呂は右近府の将監に任じられるが、四年後父の刈田麻呂は死亡している。
田村麻呂が歴史に登場するのは、桓武天皇の第一次征夷派兵である。
日高見蝦夷(ヒタカミエミシ)の阿弖流為(アテルイ)一派を討伐に派兵した紀古佐美(きのこさみ)軍が敗退して逃げ帰って来た。
しかしこんな事で東北支配を諦める桓武天皇ではなかった。
七百九十一年(延暦十年)蝦夷征伐準備の為、 征夷使・坂上田村麻呂と滅亡した朝鮮百済王族の後裔・征夷副使・百済俊哲(くだらのしゅんてつ)を東海道諸国に派遣している。
この記述、「征伐準備の為」となっているが、建前大和朝廷が統治権を確立している事になっている為で、「実は東海道諸国の平定だった」とも 言われている。
蝦夷征伐準備が整い、七月に大伴弟麻呂を征夷大使に任命し、坂上田村麻呂は四人の征夷副使の一人となる。
この間にも七百九十二年には紫波村の首長の胆沢公阿奴志己(アヌ シユ)が朝廷に恭順を示すなど、蝦夷の方でもまとまり(団結)が欠けて行く。
八百一年(延暦二十年)二月十四日、坂上田村麻呂は兵員 四万人を動員して、第三次征夷蝦夷攻撃に出発した。
田村麻呂の戦果は目覚しく、秋には従三位を授けられ、九月二十七日には「夷賊討伐せり」と報告として作戦を終了している。
十三年の功績により、田村麻呂は順調に階位を上げ、七百八十七年に近衛少将に、七百八十八年に越後守に昇進している。
七百九十五年、(延暦十四年)には抵抗した俘囚大伴部・阿テ良(アテラ)等 六十六人を日向国に流配し、陸奥国俘囚・吉弥候部真麻呂(きみこべのままろ)父子を斬首している。
阿テ良(アテラ)は阿弖流為(アテルイ)の別称か、親族かは不明である。
七百九十六年、(延暦十五年)田村麻呂は陸奥出按察使・陸奥守、に任命され、 翌、延暦十六年にはついに二代「征夷大将軍」に任じられる。
その後武門の最高官位となる「征夷大将軍」の語源は正しく東北蝦夷を討伐する「征夷」からで、桓武帝時代に始めて大和朝廷が東北蝦夷を従えた事が伺える。
渡来氏族に、鵺(ぬえ)・鬼(おに)・土蜘蛛(つちぐも)と呼ばれた蝦夷(エミシ)族にしてみれば、ヤマト王権の桓武天皇こそ鬼そのものだった。
そしてその手先が、征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)や征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)だった。
【桓武天皇のヒタカミ(日高見国)蝦夷の役】に続く。
小論・【鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】をお薦めします。
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皇統と鵺の影人
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