国家の品格
「国家の品格」に武士道を持ち出すのは大間違いで、それを提唱する者は、まるで歴史的事実を知らないしょうもない精神論者である。
近頃、「日本は武士道の国だ」とやたらに強調する連中が居るが、それは本当だろうか?
我輩の解釈では、武士道の真髄は「自らを律し、時に責任に対して潔(いさぎよ)い事だ」と解釈しているがそれは権力者が下位の者に要求する幻想的な綺麗事であり、つい最近の政治家を含め過去の歴史上で権力者が自ら潔(いさぎよ)かった事など過って全く思い当たらない。
貴方は武士道の国らしく潔(いさぎよ)かった人物を、この二千年を越える歴史の上で何人知っているのか?
詰まり我輩に言わせれば、「武士道とは、権力者に踊らされる事と見つけたり」と言う事である。
上位者が金輪際律しない「武士道の国の綺麗事」を「混乱する現代社会を律しよう」とする試みを声高に言う連中は、格好は良いかも知れないが歴史的現実を無視した理想主義者の建前に終始した「たわ言」である。
長い歴史の中で、血統(産まれ)だけを根拠に「搾取を生業(なりわい)」としていた武士道に「品格」などある訳が無い。
そうした事実を建前に隠して格好が良い事を言うから、日本人は逆上(のぼ)せ上がる。
日本は「武士道の国」と言う建前の思いが国民の間に定着しているが、それは思い違いである。
氏族社会の成立から安土桃山期に到るまでの氏族社会は、領地獲得と下克上が当たり前で、場合いによっては親子兄弟、親戚とも争っていたから、「品格」など有った物ではない。
鎌倉期くらいから広まりだした儒教・儒学(朱子学)の「忠孝思想」は永い事「一部の氏族の精神思想」だった。
支配者の血統身分である氏族(武門)の間では、その価値観である支配権の為に親子兄弟でも「討つ討たない」の抗争が珍しくない時代が千五百年以上続いた。
支配権の為に、親子兄弟でも武力抗争をする氏族(武門)の精神が立派とは思えないが、それを見てくれだけの格好良さで手放しに「武士道の国」と胸を張るのはいかがなものか?
その一方で庶民(民人)は生きる為に「村社会」を形成し、独特の性習慣の元に村落の団結を図って生き長らえる方策を編み出している。
つまり、支配者である氏族(武門)と被支配者である庶民(民人)は「全く違う価値観と生活習慣でそれぞれが生きる」と言う特異な二重構造が形態化していて両者に武道精神的な統一性など無かった。
そして武士道など知った事ではない被支配者である庶民(民人)は「村社会」を形成し、あらゆる意味で融通し合い助け合い、共同で安全を確保して生活している。
拠って日本を「武士道の国」などと一括りに言う輩は、余りにも歴史を知らないか、何かの危険な目的を持っているかのどちらかである。
日本の武士道が、世間で言われて居るような精神的(君命なら切腹もする)なものに成ったのは、江戸期に入ってからで、その後の僅(わずか)二百五十年間の事である。
言わば、儒教・儒学(朱子学)の精神思想は永い事「氏族の精神思想」で、江戸期には幕府の政策(新井白石等が主導)で儒教・儒学(朱子学)の「忠孝思想」が「武士道(さむらい道)」の手本に成ったが、けして庶民の物では無かった。
当然ながら、武士道は国民の数パーセント(三パーセント前後)を占めるだけの特権階級、武士(サムライ)の精神的な思想だった。
歴史的に見ると、江戸期の一般の大衆はむしろ平和主義者で、武士道などは他人事だった。
つまり、大概の国民にはフィクションに近いのが、建前論の「武士道の国日本」である。
それを、明治政府は「国民皆兵政策(徴兵制)」の為に利用して、「日本は武士道の国だ。」と言い出した。
国民は「格好の良い事」に騙され易いが、つまりは、国家体制の為に利用した精神で今日またぞろ「武士道の国」が言い出される環境は、実は危険性を孕んでいる。
「国家の品格」は確かに聞えは良いが、耳障りの良い言葉やムードに酔わないで、真実を考察して欲しいものである。
明治新政府は、王政復古によって神道による国家の統一を目指し、それまでの神仏習合から仏教の分離を画策して、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)と銘銘し、仏教の排斥運動や像、仏具類の破壊活動が行われた。
つまり、強引に皇統の神格化を図ったのである。
明治政府の行き過ぎた天皇の神格化は、武力維新で握った権力を離したくない勢力の欲心が、成せるもので有った筈で有る。
いかに崇高な理想に燃えた人物でも、統治権を手に入れた途端、「鵺(ぬえ)」に変身するのが、人間で有る。
維新後の経緯を見る限り、薩長維新政府は極端な天皇親政政策を隠れ蓑に、強引な神国政策を強行し、「日本を駄目にした」と考えられる。
維新以後の歴代政府は、儒教を道徳の柱にして国家の統制を図った。
当然ながら「嘘はいけない事。」と散々教えた。
その政府が、「国民に不安を与えたくない」の理由で、負け戦を「勝った勝った」と発表した。
東条英機氏が首相を勤めた戦時中の「大本営発表」である。
すると、「嘘はいけない事。」と言うのは、国民限定の戒め、道徳的教えらしい。
それが証拠に、戦後六十年間を経た現在でも政治に嘘が蔓延している。
そんな妖しげな武士道精神に、果たして「国家の品格がある」と言われてもにわかには信じ難い。
「武士道の国・日本」と「大本営発表」、この矛盾を解消しない限り日本の政治家の言う事は建前以外の何物でもない。
道徳思想そのものを反対する訳ではない。
「忠孝思想」には良いものが沢山あるからそれは採るべきであるが、悪用される危険が潜んでいる事を自覚しなければならない。
「忠孝思想」に危惧感を抱くのは「忠」の部分である。
明治政府は、この「忠」を道徳の柱として「国民皆兵政策と国家への忠誠心」に利用した。
「忠」の部分を拡大解釈して、上位の命は理不尽な事でも受け入れる江戸期の「武士道精神」を、明治政府は「国家思想」とした。
この「黙って上の者の言う事を聞け」の「忠」は、権力者には反対や反抗を封じる手段として都合の良い、危険なものである。
つまりその「忠孝思想」が暴走して、国民は酷く理不尽な戦争を「忠」の名の下に戦わされたのである。
そうした過去の検証を、確り整理作業をして消化して行くべき部分が無く、只「道徳教育に取り上げ様」と言う所に、現政府の何か妖しい意図を感じる。
未だに「忠孝思想」の美学幻想で、「黙って上の者の言う事を聞け」の官僚・役人や政治家、会社の上司が存在するが、本来物事は是々非々で進める事が民主主義の基本である。
詳細は、小論【国家の品格】に飛ぶ。
【第六巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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