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後白河天皇(ごしらかわてんのう/後に上皇・法皇)

平安末期、第七十七代・後白河天皇は、鳥羽天皇(第七十四代)の第四皇子・雅仁(まさひと)親王として生まれる。

弟の前帝・近衛天皇が崩御した為、雅仁親王の息子の守仁親王に世継ぎが廻って来たのだが、守仁親王がまだ幼かった為に、千百五十五年(久寿二年)に守仁親王即位までの中継ぎとして雅仁(まさひと)親王が第七十七代・後白河天皇として二十九歳で即位した。

千百五十六年(保元々年)、前々々帝(第七十四代)鳥羽法皇が死去すると崇徳天皇(すとくてんのう/後に上皇)が絡む「保元の乱」が発生する。

「保元の乱」から二年後の千百五十八年(保元三年)後白河天皇は守仁親王を第七十八代・二条天皇として帝位を譲位、自らは法皇と成って院政を敷こうとする。

所が二条天皇の即位により、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなどし、その対立が千百五十九年(平治元年)に頂点に達し「平治の乱」が勃発する。

この「平治の乱」で源義朝らを破った平清盛が、強力に権力を握り始めるのである。

後白河上皇(法皇)が目標とするのは、あくまでも天皇の権力を強め、院政を取る事で、このままでは平家(平清盛)源氏(源頼朝)に代わっただけで、平家打倒を画策した意味が無かった。

所が、後白河上皇と平清盛とのせめぎ合いの中で治承のクーデターが起こり、権力は完全に平家が手中にしてしまっていた。

後白河上皇(法皇)は焦っていた。

源氏の勢力が固まる前に手を打たねばならない。

老獪な後白河上皇(法皇)は、次の画策を謀る。

大きく成った源氏の力を削ぐには、源氏を分裂させて、互いに争わせる事だ。

後白河上皇(法皇)は、実力、人気の高い源義経に目を付けた。

と言うよりも、義経には幼少の頃から勘解由小路の影の手の者達を配してある。

用意周到な後白河上皇にしてみれば、いよいよこの謀(はかりごと)を、利用する時が来たのだ。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 11:35  

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